ラジコンの送受信機や、IoTデバイス、有機ELディスプレイを開発・製造する「双葉電子工業」が、携帯電話キャリアとの産業用ドローン共同開発というイマドキなニュースの陰で、フタバのルーツともいえる秋葉原の岩本町に開いていたホビーラジコンショップの解散閉店を発表しました。
「双葉電子工業」は1948年に設立、1961年には秋葉原万世橋に店舗を開業、そのころ、ほとんどが海外製品だったホビーラジコンを日本で広めるベースを作り、その後、店舗事業として「フタバ産業」を1972年に独立させました。その頃のアキバは今と異なり「秋葉原電気街」は「ラジオセンター」を代表とする、家電などの電気製品はもとより、電子部品などを売る個人商店が乱立、双葉電子工業がラジコンショップを開業するための”必然”が揃っていた街でした。
筆者は1970年生まれ。たくさんの思い出を残した名だたるアキバのラジコンショップが誕生したのと同じくらいに生まれたのです。1980年代の秋葉原は、LAOXやサトームセン、石丸電気といったメインどころに交じって、アマチュア無線関連商品とラジコンが同じフロアに並ぶ「角田エックスワン」や飛行機関連パーツが豊富な「アサミ」、バギーチャンピオンの尾上選手がいた、ヨコモのターボパワーバッテリーをバンバン売ってた「ジョイプラザ」が良い距離を保って中央通りを挟んで佇み、時に歩行者天国の路上でラジコン大会が行われるほど賑わいを見せていました。
初めてのホビーラジコンをお年玉握りしめて買いに行った中1の冬、そんな昔でもやっぱり、ラジコンパーツやネジ類は”どこでも入手できる代物ではなく、インターネットが普及していなかった時代なので、電車に乗ってアキバへ出ないと買えないものばかり。しかし、タミヤの製品だけは、プラモデルつながりで一部、近所の模型屋さんで入手することが出来ていました。
「おもちゃのキリン」とは、地元のJR高架下にあった2階建てのホビーショップです。1階がぬいぐるみや幼児向け玩具がメインの売り場、階段を上っての2階が、豊富なプラモデルと少々のラジコンパーツを扱う売り場で、中学時代はいつもそこで屯(たむろ)していました。1978年頃のガンプラブームの時には、早朝から長蛇の列ができるような店舗でしたが、駅前に建て替わったイトーヨーカドーにおもちゃ売り場が出来ると、売り上げが逓減し、デジタルゲームブームや携帯電話やスマホの普及に流されるように、2000年代初頭にその幕を閉じました。
その頃に乱立を始めたゲームソフト/ハードを売るショップも、TSUTAYAやGEOの台頭や、家電量販店の進出により衰退、少年から大人までのホビーは劇的に多様化していきました。
秋葉原は、ジョイプラザ、エックスワン、アサミのあとを追うように、洛成モデルやチャンプなどもどんどん撤退していきました。もはやアキバは電気街ではないですね。そして今回のフタバの閉店。まだ、タムタムやスーパーラジコンが残っていますが、ネットで買えないものはないという時代。固定化多店舗の優位性は既に失われています。
アキバのフタバは来年3月で終わります。60年の長きにわたり、ラジコン少年の夢を支えてくれた世界のFUTABAに敬意を表するとともに、この素晴らしいホビーがもっと盛り上がればいいのにと思わずにはいられません。
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「双葉電子工業」は1948年に設立、1961年には秋葉原万世橋に店舗を開業、そのころ、ほとんどが海外製品だったホビーラジコンを日本で広めるベースを作り、その後、店舗事業として「フタバ産業」を1972年に独立させました。その頃のアキバは今と異なり「秋葉原電気街」は「ラジオセンター」を代表とする、家電などの電気製品はもとより、電子部品などを売る個人商店が乱立、双葉電子工業がラジコンショップを開業するための”必然”が揃っていた街でした。
筆者は1970年生まれ。たくさんの思い出を残した名だたるアキバのラジコンショップが誕生したのと同じくらいに生まれたのです。1980年代の秋葉原は、LAOXやサトームセン、石丸電気といったメインどころに交じって、アマチュア無線関連商品とラジコンが同じフロアに並ぶ「角田エックスワン」や飛行機関連パーツが豊富な「アサミ」、バギーチャンピオンの尾上選手がいた、ヨコモのターボパワーバッテリーをバンバン売ってた「ジョイプラザ」が良い距離を保って中央通りを挟んで佇み、時に歩行者天国の路上でラジコン大会が行われるほど賑わいを見せていました。
初めてのホビーラジコンをお年玉握りしめて買いに行った中1の冬、そんな昔でもやっぱり、ラジコンパーツやネジ類は”どこでも入手できる代物ではなく、インターネットが普及していなかった時代なので、電車に乗ってアキバへ出ないと買えないものばかり。しかし、タミヤの製品だけは、プラモデルつながりで一部、近所の模型屋さんで入手することが出来ていました。
「おもちゃのキリン」とは、地元のJR高架下にあった2階建てのホビーショップです。1階がぬいぐるみや幼児向け玩具がメインの売り場、階段を上っての2階が、豊富なプラモデルと少々のラジコンパーツを扱う売り場で、中学時代はいつもそこで屯(たむろ)していました。1978年頃のガンプラブームの時には、早朝から長蛇の列ができるような店舗でしたが、駅前に建て替わったイトーヨーカドーにおもちゃ売り場が出来ると、売り上げが逓減し、デジタルゲームブームや携帯電話やスマホの普及に流されるように、2000年代初頭にその幕を閉じました。
その頃に乱立を始めたゲームソフト/ハードを売るショップも、TSUTAYAやGEOの台頭や、家電量販店の進出により衰退、少年から大人までのホビーは劇的に多様化していきました。
秋葉原は、ジョイプラザ、エックスワン、アサミのあとを追うように、洛成モデルやチャンプなどもどんどん撤退していきました。もはやアキバは電気街ではないですね。そして今回のフタバの閉店。まだ、タムタムやスーパーラジコンが残っていますが、ネットで買えないものはないという時代。固定化多店舗の優位性は既に失われています。
アキバのフタバは来年3月で終わります。60年の長きにわたり、ラジコン少年の夢を支えてくれた世界のFUTABAに敬意を表するとともに、この素晴らしいホビーがもっと盛り上がればいいのにと思わずにはいられません。
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