カテゴリ:まいにちまいにち > ちょっとおかしな話


13歳の西矢椛が涙の金メダル

(Yahoo!ニュースより引用)


https://news.yahoo.co.jp/articles/8f009c1ea37074b27a608b0c38ae054cafe97ec8?tokyo2020



子決勝を昨日テレビで観たときは、少しばかり競技に対するひとつの違和感を覚えていましたが、このニュースを見たとき「ああ、やっぱりそうだよねー」と少しホッとしました。

何の話かと言うと「ヘルメット」の装着・・・。オリンピック種目になったのは今回が初めてで、ハーフパイプとかしか見たこと無かったので、オリンピック程の超メジャー大会で「ノーヘル」で「Airpods」を耳に突っ込んだまま競技に臨む選手(みんな一流なんだけど)たちを見て「え~っスケボー(競技)ってこうなのか?!」と少々面食らったのでした。


思えば、昔はアルペンスキーですら、ヘルメット被ってるのはダウンヒル(滑降)競技くらいで、大回転でもニット帽と言う時代がありました。
ツールドフランスのような自転車レースもそう。昨今は一般スキーヤーも一般スノーボーダーもヘルメットが浸透してきて、ロードバイクなんざヘルメット被ってない方がカッコ悪いと言われる感じ。
その理由がだいたいにおいて「命を落とすような事故」が背景にあるんだけど。


スケボーがオリンピックに進出した理由に「認知度向上」とか「社会への浸透」をもし挙げているなら、男子も最初からヘルメット被ればいいのになと思いました。




そういうところ、やっぱりIOCとかJOCって殿様商売のくせして「業界任せ」‥‥‥威厳が無いですよね。




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出社ついでに「マイナンバーカード」受け取ってきたのですが「えっ!?」と思ったことが何点か…。
①予約が取れなくて、駅近くの出張所やめて区役所別館までバスで来たのに、予約してなくても受け取れた、と言う事実。もちろん予約優先だけど、自分も予約時刻より先に手続きできた。予約人数の上限とマンパワーが不釣り合いだ。
②用意して行った暗証番号が登録できなかった。8桁の大文字小文字混じりの英数字を考えていたけど、大文字小文字は関係ないらしい。でも2種類の設定が必要。
③受け取り証書が紙だった。全て手書き。
考えてみれば、サラリーマンですら完全なITリテラシーが整っているわけではないし、ましてや一部の高齢者の方々にデジタルはやっぱり不向き。手続きするスタッフが手間取ってるくらいだし。
ダイジョブかなぁ…日本。IMG_20210604_115849


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グループ総帥からの「年頭のあいさつ」に続き、執行役員が次々にショートコメントを会社イントラページに載せてるのですが、今年はなんだか「4字熟語」が流行っているらしく、中には難しい4字熟語・・・これはもう漢文といったほうが早いやつまで出揃いました。

その中でも「これ使ったことない」といった4字熟語に、書いた人の役職を並べてみたところ、なるほどその役割に相応しいようなやつを持ってきてるのね。偉いわみんなと思った次第(笑。

「不撓不屈(ふとうふくつ)」・・・苦労や困難があっても決して諦めることがないこと。「不撓」は心が折れないこと。「撓」は固いものが強い力で曲がるという意味。「不屈」は屈しないこと。(最高執行責任者 = COO)

「泰然自若(たいぜんじじゃく)」・・・落ち着いていてどんなことにも動じないさま。「泰然」は落ち着いて物事に動じないさま。「自若」は何に対してもあわてず、驚かず、落ち着いているさま。(最高財務責任者 = CFO)

「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」・・・・将来の成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て苦いきもをなめる意から。「臥」はふし寝る意。「薪」はたきぎ。「嘗」はなめること。「胆」は苦いきも。(最高技術責任者 = CTO)

「和衷協同(わちゅうきょうどう)」・・・心を同じくして共に力を合わせ、仕事や作業に当たること。「和衷」は心の底からなごみ和らぐこと。また、心を同じくすること。「協同」は力を合わせて物事を行うこと。(最高情報責任者 = CIO)


でも、ぜんぶ真に受けたら、死んでしまうわ・・・。
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「広辞苑」の第7版が刊行されたのはもう2年前ですが、そのときのキャッチコピーが面白くて「ことばは、自由だ」だったんですよね。言葉の意味を知りたくて、電子辞書やらウィキペディアやらを調べる、あるいは「ググる」のが近年の通例なのですが、その代表格と言える広辞苑が「自由だ」と言い放ってしまうところが楽しいわけです。

真意は別のところにあって、それだけ広辞苑という辞典が懐が深くて、というところになるのですが、今はインターネットが普遍的なものになってから四半世紀が経とうとしている時代。Facebookに「いいね!」が付いたりInstagramのシェア数が多いほど、”この世のもの”として正しいもののように捉えられがちになってきているのも事実です。 ネットでは、語源・・・本来、というか元来の意味(言葉が生まれたときに授けられている、その言葉を説明する意味)そっちのけで、民主主義よろしく「どっちの使われ方が正しい」の激しい議論が繰り広げられている言葉が少なくありません。このような事象を見ても、それを解説する「広辞苑」の「ことばは、自由だ」の意味がより理解できるのですが、それにしてもインターネットというフィールドの自由なことか・・・とある意味感心してしまうのです。

ネットでアツイ議論が繰り広げられた言葉・・・「壁ドン」や「魔改造」・・特に「魔改造」は、ほぼ国営放送であるNHKが番組名に使用し「魔改造」の元来の意味とは異なる説明を全世界にブロードキャストしてしまったことで物議を醸していました。NHKがやっちゃうと、それはもう、プロデューサーのセンスではなく「情報統制」に似たものとなってしまい、民主主義をぶち壊しかねません。だからNHKは嫌われるのです(笑。

本当はそういう意味ではない・・・つまり「誤用」されている言葉も、多くの人がそのような「誤用」を繰り返すあまり「誤用」が一般化してしまっているが為に、意味が変わっている言葉もあります。なぜなら、言葉そのものがひとつの「コミュニケーションツール」だからに他ならないからです。多数決ではないですが、より多くの人々が使う言葉は「昔はこういう意味だった」というのは既に意味を持たず、今多くの人が使う意味合いの方がより重要だといえるからです。ただ自身が、予てから長らく使ってきた言葉の意味が、自身とは異なる世代の人々によって覆されるのは、なかなか納得がいかないかもしれません。でもそれも「ジェネレーションギャップ」なのだと思います。

「言葉の壁」というと少々大げさですが、自身の既成概念では受け入れがたいものの一つが「言葉の壁」です。しかしながら、向こうの人が日常普通に使ってるからその言葉を使うのも普通・・と思えば、外国語も受け入れやすいというのは事実です。なかなか憶えるのは大変ですが、新しい言葉、若者(死語)の言葉も、難しく考えず意固地にならず・・なら、受け入れるのも優しいかもしれません。ただ、無理して使う必要もありませんが(笑。



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死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪
(2019/9/29 毎日新聞webニュースより引用)
https://mainichi.jp/articles/20190929/k00/00m/040/044000c?inb=ys

山口県の小中学校で、いわゆる「トロッコ問題」を資料にした授業があり、保護者からクレームが起こったという話です。授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いだったようですが、端的に言うと「5人を殺すか?1人を殺すか?」の選択を求める問題であって、授業を受けた子供たちは、この部分に不安を感じ、自分の親に話をしたのでしょう。

「心の専門家」であるスクールカウンセラーが授業を行ったとのことですが、何人もの児童が心の不安を訴える等の状況になることを予め理解できなかったとすると、単にカウンセラーの技量の問題となってしまうわけですが、それよりも「物言い」の保護者は、文句は言うけど「では、どんな授業なら倫理観の勉強になるのか?」は言っていないでしょう。全然建設的ではないですね。

筆者なら、こうします。
①作業員を軽自動車とバスに置き換えて、踏切で立ち往生していることにする。
②「トロッコ問題」では選択できない別の選択肢を採れるようにする。

①は「生身の人間」を「自動車」にすることで「確実に死ぬ」という想像から「怪我をしてしまうかも知れない」に和らげられるのと、実際に同様のことが目の前で起きた時の正しい行動(非常列車停止ボタンを押す)を教えることが出来ます。②は逃れられない現実で心を不安にするよりは、空想等で逃げられるようにすることで、ハートが弱い子供にも優しい問題となります。

「批判はすれど対案は示さず」は「事なかれ主義」な方々の最たる特徴と言えます。つまり「事なかれ主義」は「倫理観」を教えられないということです。小学校でどこまで倫理観を教えるのか?という課題は別にあるとしても、正しい大人になるためには必要なスキルです。

また「事なかれ主義」な方々が多い日本はいま、窮地に立たされています。それが「AI(人工知能)」です。アメリカだけでなく、もはや中国にも置いてけぼりを食らっています。「トロッコ問題」を出すことそのものに文句を言うだけで対案を示さないので、AIがどんな選択を出すかに恐怖するだけで「AIは危険だ」として開発を進めないからです。

巷には、まさに「トロッコ問題」を人間に解かせ、その結果を収集するプラットフォームがあります。「MORAL MACHINE(モラルマシン)」というWebサイトです。
http://moralmachine.mit.edu/hl/
(日本語ページもあります)

AIは機械学習により適正な判断を下すようにしていく必要がありますが、このWebサイトは機械学習用データベースそのものです。事なかれ主義な方々は、このプラットフォームによってデータ蓄積され、機械学習が進んだAIが運転するロボットカーの決断をどう捉えるでしょうか?「あなたの意見ではなく、無数の一般の人間のティピカル(典型的)な判断だ。」と言われても、やはり「AIは危険だ」と言うのでしょうか?

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 「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」って、かつてのツービート時代の北野武さんが言って、流行語にもなった言葉があります。ここで「そもそも赤信号なんだから渡っちゃダメでしょ」と返すのは、ギャグで言っているのだからナンセンスです。ナンセンスばかりか、ギャグの本質を理解していません。
 
 交通事情が現在と少々違い、交通事故死傷者数も現在よりもっと多かった時代の話です。交通の激しい道の横断歩道が赤の時に、飛び出せば事故は免れない、というところに大勢で飛び出せば(誰かがはねられて死ぬかも知れないが)何人かは助かるだろう、という意味のギャグです。要はブラックです。


 しかしながら、ギャグで言っていることを承知で「ホントにみんなで渡ったら怖くないのか?」「ひとりで渡ったって怖くないぞ!」という話はあります。ただ、これは、そもそもが交通違反ネタをギャグにしていることであり、ギャグの本意から大きく外れた領域での"雑談レベル"のもので、当然議論には載りません。「飲み話」の領域です。そういう話を広げるときに、事実を語ったり、感情を持ち込んだりしてはいけません。あくまでも「飲み話」なのです。

飲み屋で「飲み話」をしているときもそうですが、話の前後も良く判らず、あるいは、冗談で言っていることなのに、急に感情的に差し込んできたり「それは間違ってる」と指摘したりする人が居られます。仲間内で飲みながらふざけあってるところでは、まさに「興醒め」です。

それがまだ「飲み話」の領域を超えないのであればまだマシですが、それが、事実を基にした議論の場合は別です。


 Facebookの中にある、とある趣味のコミュニティの中の話ですが、あるとき、その管理人による「投稿削除」と譴責、そして「言論統制」とも取れるような投稿がありました。その投稿の内容はとても論理的で正当なものでしたが、投稿削除された内容が、他人を誹謗中傷するような、あまりにもえげつないものだったので、その管理人発言に賛同する住人も少なくありませんでした。

 少なくない、というのがミソで、反論ももちろん出ていました。「言論統制」的な部分についてでした。管理人の発言は「ネガティブな内容で議論したいなら他でしろ」という者でした。

 自転車のコミュニティなのですが、多くは「道路交通法」や「安全走行」に関する話題に対し、最近、信号無視して駆け抜ける他の自転車乗りの映像を撮影して載せたり、不法改造車(ブレーキが無いとか)を見つけては写真掲載したりという投稿が増えてきており、中には、道路交通法をよく調べもしないで(Webなんだからいくらでも調べようがあるのに)「これはどっちが正しいと思いますか?」という問いや、「みなさん、ベルつける派ですか?」とか、いわゆる正義を掲げてルールそっちのけで議論しようとする人が増えてきたのです。そこが、管理人の逆鱗に触れる事態となったのでしょう。


 もっとすごいのは、Facebookという場所がほとんど「実名公表」で交流を図る場所なのに、平気で不毛な議論(にもならないような話題)を展開しているという事かもしれませんが。こんな使われ方をしているうちは、SNSは大したものではありませぬ。

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一年生になったら 一年生になったら
ともだち100人 できるかな
100人で 食べたいな 富士山の上で おにぎりを
パックン パックン パックンと

まど・みちお作詞/山本直純作曲「一年生になったら」の歌詞より


良い歌ですね。

小学校にあがろうかと言う子供が、楽しい学校生活を夢見て歌い上げる歌です。また、友達が出来ることで何人もの力が一つになって、一人では出来ない大きな夢をかなえられるかもしれない・・・そんな想いが込められているように感じます。

小学校~は、親や大人に認められたいという時期から、人に認められないという想いに変わる時期でもあります。人に認められたい、ということは、互いを認めあう、ということでもあります。互いを認め合ってこそ大人であり、友達とはそのような仲であるべきでしょう。

そして「要」は、「ともだち100人 できるかな」の部分です。
「できるかな」と問うているのであって、「作れるかな」とは言っていません。勿論、語呂の悪さもあるでしょうが、友達は「できる」ものであって「作る」ものではないと言ことが、この小学校にあがる前の子供の歌にも表れています。

ネットの中で「友達が100人なら自分入れて101人じゃね?おにぎり食べる時に少ない1人はいじめでも遭ったのか?」というアホな書き込みが見られますが、ホント、アホの言う事ですね。

100と言う数字は小学校前の子供にとっては「大きな」数字です(誰も100円が高額だとか、100mが長距離だとは言ってませんよ)。「ともだち100人」の「100」は未知なる希望の数字であって、正確な人数を謳っているものでは無いはず。大人的都合主義的な言い方をすれば「およそ100人」かも知れません。だから、その後に続く「100人で食べたいな」は、そのくらいたくさんの友達(仲間)が居れば体験したことの無い大きなことも出来る、という感じです。

このような、高々(友達の人数の)数字が1違うくらいで突っ込み入れるような人間は、自分の友達の数を聞かれたらケータイ(スマホ)のアドレス帳をすぐにのぞきに行くような人間でしょうか。



「中年に新しい友達って必要? 人間はひとりで死んでいく」

40歳過ぎて、新しい友達って本当に必要なのでしょうか。
(中略)
だいたいリーダーというか親分が出てきます。そういう人についていけば、考えなくていいから楽かもしれませんが、その先には死が待ち構えているかもしれない。
(中略)
人間はひとりで死んでいくのだから、もっとひとりの過ごし方、楽しみを覚えたほうがいいと思います。
(後略)

2014年1月18日掲載 Sankei-Bizの蛭子能収さんのコラムより抜粋


内容は蛭子能収さんの実経験から来た私見に溢れていますが、あながち「的を射て」いないとは思えません。むしろ、「レンタルフレンド」等に興味を抱いている人にとってはまさに「恐怖のコラム」かも知れません。

この中にも同様に「友達は作るものでは無く、出来るものだ」というくだりがあります。コラムの中には「友達とは何か?」という本質が書かれているように思えます。

「嫌な想いをするくらいなら、友達なんて欲しいと思わない。」

ここで言う「嫌な思い」とは、友達と言う名のもとに、友達を(一方的に)利用しようと言う切ない気持ちを受けることです。「友達なんだから助けろ」というのは大間違いです。
確かに、そんな経験をしたら嫌な思いをするでしょう。でも、そういう相手は友達ではありません。

LINEやFaceBookでつながっている人も友達ではありません。(FBでは「友だち」と書かれてますが・・・)

中にはホントの友達も居るはずですが、LINEだけでなく、この世からケータイやスマホ、インターネットが無くなっても切れないのが真の友達です。そういう意味では、何もかも無くなっても、その"飲み屋"さえ存在していればつながる「飲み友達」も、ホントの友達に近いかも知れませんが。


幼稚園や小学校等で出来た「ともだち」が永く「友達」で居続けることはそれほど多くはありません。これは、学校が変わってしまったり、住む場所が変わってしまったり疎遠になることが原因です。共に過ごす時間が長いから「友だち」で居られるだけなのです。

1日は24時間しか無く、学生や社会人に進むにつれて、時間の「使い方」、あるいは「使え方」が変わってきます。他愛も無い話をしたり、一緒に遊んだりする時間はどんどん削られていきます。

しかし、何歳(いくつ)になっても、友達とは、価値観の共有や体験の共有によってもたらされるものだと思います。

友達が居ないと嘆いているひとは、その人間関係的な面倒くささに頑なに背を向けているだけなのではないでしょうか?そのくせ、孤独が嫌なだけではないでしょうか?


富士山の上で おにぎりを」食べてみたいと思う人なら、
軽く100人くらいいるんじゃないでしょうか?


自分を見つめ直しましょう。
そして、相手を尊重しましょう。

例のSNSに投稿後、若干2件のレスがありました。
まだ2件だからいいようなもので…。

一方は、かなりまともな意見。
要は、個人の価値観によるところが大きいから(万が一それが正しくないとしても)尊重すべき。
そういうこと。

至極真っ当な意見だと思いました。
でも、そーゆーことを問いたいんじゃないのです。
前にも書いてますが、ブルホーンハンドルになぜに機能を犠牲にしてまでSTIレバーなのか?
これだけです。

STIレバーといえば、MTB用もあるんですよね。
でもこちらは、ブレーキ形式がVブレーキなので、ストロークが合わないかも。
それをつけている例は皆無で、やっぱりみんなドロップハンドル用のSTIレバーを使ってる。

あくまで想像なんですが、もしかしたらみんな「ロードバイクに乗りたい」んじゃないのか?
そう思ってしまいます。
そうそう2台目になんか手が出ませんからねえ…よほど金に余裕があるかアホでないと。

だから、価値観というのは正しいと思います。


もう一方のコメントは、支離滅裂でした。

「(ギヤの)多段化はケイデンスの維持に必須」
「交通量の激しい一般道ではハンドルから手を離さないSTIが有利」
「どんなフレームでもパーツの組合せや溶接などでダブルレバーでも装着可能」

ミニベロのカスタマイズの板なんですが、ミニベロやブルホーンの話はどこへ?
そもそも「交通量の激しい一般道」で「ケイデンスの維持」とは?

なんか、書き込まなきゃよかった…。

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子供の頃に親に買ってもらった自転車は別として、本格的なロードバイクに乗り始めて、もう22年。
通学に使ったミヤタの「カリフォルニア・ロード」の使用期間を足して良いのなら、間も無く30年だ。

最初の頃は何一つ自転車に対する知識も無かったが、今では嫁号ママチャリの修理や整備まで自前で
行うほど、工具も揃えば経験値も上がった。

もちろん、現在愛用のロードはフレームから組んだものだ。
何よりも使い心地が良い…自分として。

だからと言って、自転車のエキスパートを自負したり、他人にとやかくいうつもりもないが、
それでも目に付く鼻につくものがある。

自転車のカスタムやライディングコースを採り上げたSNSである。

他人の趣味だ。とやかく言うつもりは無いが、まるでk⚫k⚫k⚫,comの書き込みのごとく、
それが正のような展開になり、質問者は他に術がないかのごとくのたうちまわり、回答者は
我が物顔でそれに応じている。

大昔のチャットもそうだったけど、結論からいうと「異論のある者入るべからず」の図式が既に
出来上がちゃっている。

どうしても気になってコメントした板は「ミニベロのブルホーン+STI化」のところ。

自分も経験があり、20インチミニベロも1台所有しているので、ミニベロの有用さは承知である。
そこに、実質的にはあまりメリットの無いブルホーンをつけたい気持ちも、何となく解る。
でも、そうじゃなくて、ブルホーンにSTIレバーを、なんで付けたいの?ということ。

ブレーキレバーだってシフトレバーだって、ブルホーン用がちゃんとラインナップされてるのに…。
STIレバーはドロップハンドル用にデザインされた、主にレースでのメリットを考えてデザインされて
いるものなのに、ドロップじゃなくブルホーンに、しかもポタリングくらいしかしないミニベロに
付けようと躍起になっている人と、それをアドバイスでもするかのようにコメントする人…。

変です。はっきり言うと。
で、コメントしました。誰も反応無し。

だから、スマホだネットだって言ったって、ほとんど多くの人は全く活用出来てないって思うんです。

ネットもスマホも、結局はツールでしかないんですよね。
最後は、経験が、ものを言う。

いじり倒しているような人は、あんなとこ読まないか…。
最後は何だか呑んべいの愚痴のようになってしまったことをお詫びいたします…。

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総走行距離やらガソリン代やら高速通行料金やらと、週末春スキーの費用計算をしていたら、ふと、「その場限りの費用は良いとして、減価償却のように費用按分の計算を取り入れたらスキー旅行代って、いったいいくらになるんだろう?」とアホな事を思いついてしまった。

減価償却は期間を定め、その期間の長さで除算して資産価値を決めるが、自家用車は営業日中フル稼働するわけじゃないので、この除算ベースを「走行距離」で考えてみることにした。もちろん、リセールバリュー重視でクルマを選び、車検が来る前に乗り換えるような人もいるので、全てのケースにマッチはしないが、このような計算をしてみると「クルマを買う・使う・乗る」事の本当の値段が見えてくる気がする。

条件1:原価は次の通りとする。
車両本体価格+装着オプション+購入時諸費用+車検3回分(8年乗る計算)。これに、必須消耗品(タイヤ)の購入費用、洗車費用を合わせる。
→うちのクルマの場合、車両本体価格は240万円だったが、諸々で300万円くらいで購入した。その後の車検などの費用を全て合算すれば400万円くらいになるだろう。

条件2:総走行キロは8万kmとする。
これは行かなさそうだけど、いちおう1年1万km×8年で8万km。

これらの条件で計算すると、1kmあたりのクルマの費用は50円/kmと算出される。
リッター150円のこのご時世でも、燃費が10km/Lなら5km走っても合計425円しか
掛っていないことになり、タクシーに乗るよりはるかに安い。

しかし、これは錯覚である。タクシー代のみと戦わせれば確実に「マイカー持った」方が安いのは当たり前である。相手は乗用車の減価償却+人件費+諸費用を見ているためだ。

話がそれたが、前述の条件で湯沢にスキーに出かけてみる。

我が家(東京都足立区)から越後湯沢間の往復は、分かりやすい500km。これに前述のキロ当たりの費用を乗算すると、なんと!50円×500km=25000円である。これに高速道路の通行料金とガソリン代を足したら40000円程になってしまう。

でも、多人数乗車すれば、新幹線で行くよりは安い、という事実も。

やっぱりくだらなかった・・・・。

考えてみれば、50円/kmは破格の安さかもしれない。1000kmも乗らずに手放されるロードバイクよりはるかに経済的でもある。ましてや、乗っていない間だってマイカーは楽しめるのだから・・・ね。


う~ん、値段が高くても良いモノを使う、ということが解ってきた気がする。目先の安さにつられて飛びついてしまうと、結局徳にはならないってことね。

「友達」ってなんだろう?
「レンタルフレンド」の記事を読み、複雑な気持ちになるより先に、少々イラっときた。

自分が20代のまだ若かりし頃、巷の女性が口を揃えて言った「理想のタイプ(男性)」に「自分を持っている人」というのがあった。他にも、「クルマの運転が上手い人」「ぐいぐい引っ張ってくれる人」「お酒に飲まれない人」「頭のいい人」「器用な人」などなど・・・・あの頃はバブルだった。経済もバブルだったし、モノや情報があふれていた。その中で活動していた若者は、周りに流されない、自分に自信を持っている、というような、現在でいう「肉食系男子」こそ理想だったという時代だった。

現在のほうがもちろん、モノや情報のあふれ方はハンパ無い。でも、20年前が現在と大きく違うのは、インターネットもケータイも普及していなかったということ。それでも若者は、男女の別を問わず、ガツガツと働き、情報誌を読みまくり、いろいろなところに出かけては多くの人と接し、食べ、飲み、遊んでいたものだ。しかしそれもバブルだったからなのだろうか?行動を共にする「友達」や「仲間」がたくさん居たからではないだろうか?

欲しいものがあれば自分の行動力で探し、手に入れていたのは昔の話。現在は何の苦労も無く、インターネットの中で物色し、値段を比較し、一番安い場所にお金を落とす。ありとあらゆるものをネットで知っているから、実物を初めて見た時の感動も希薄だ。ネットショッピングは手軽で便利だが、「買い物のダイナミズム」が欠如していると思う。自分も良く利用するが、毎回同じ店で嗜好品や消耗品を手に入れる場合のみ。他の「一点買い」のものは、まずは実物を手に取らないと買わない。

インターネットが大きく普及した10年前、チャットや2ちゃんねるのような、ネットの向こうの見ず知らずの人間と文字で会話するものがすごく楽しい時期もあったが、そこから友達が出来たことなんてなかった。友達は、実際に直接会ったことのある人しかいない。しかし、それが正常だろう。そうでなければ「友達」では無いはずだ。

ここで、「友」の意味をググってみた。

字源
会意。かばい合(あ)うように曲げ(まげ)た手(て)をふたつ書(か)き並(なら)べた文字。

意義
かばい合(あ)うような仲間(なかま)のこと

名詞
(とも)自発的に行動を共にしようとする、親族もしくは配偶者又は恋愛関係にある者以外の人間関係。

「レンタルフレンド」なるものが最近商売としてあるそうだ。
その言葉から「援●交際」とか性●俗的なイメージを思い浮かべがちだが、ここで言う「レンタルフレンド」は、そのような要素はほぼ無く、たとえば「映画のチケットが2枚あるけど一緒に行く相手が居ない」とか、「行ってみたいレストランがあるが一人では入りづらい」など、行動をともにするパートナーをレンタルしてくれるものだそうだ。

ニュースの記事には「傷つくくらいならお金を払う」というようなメッセージがあり、このような人たちは「まわりから一人ぼっちに見られるのが恐い」とあるのだが、このようなサービスに申し込みを行う自体、「自分は一人ぼっちである」ことを自ら打ち明けているようなものなのに、それは大丈夫なのだろうか?

広い意味で捉えれば、言わば「ツアーガイド」のようなものなのかも知れない。ツアーガイドは、目的地へ向かう間の話相手になり、目的地では数々の手ほどきやサポートをしてくれる、初めて訪れる旅先では心強い味方となる。

ただ、一人で旅をする人ほど人に頼らないもの。自分のペースで旅行を楽しみたいから一人旅をするわけだから。いつも一人でいる、誰かとつるむことを好まない人は、人にペースを乱されたくない、人とのかかわりの面倒な部分を排除したい、という気持ちもあってのことではないだろうか。

一人旅の伴侶は「一人ぼっちの気持ち」である。その土地、その場所の状況が100%自分の身に降りかかってくるので、大勢人がいる場所では孤独感を味わうこともある。そうなると、自ずと人とつながりたい衝動に駆られ、その土地その場所の人たちとたくさんしゃべりたくもなるのである。

友達作りのきっかけって、実はそんなところにあるのではないだろうか。
自分の手を動かして飯を食べないのは、身体的な事情のある方を除けば赤ん坊くらいである。行動無くして得るものは無いのである。
前述の記事について、2ちゃんねるにも「友達は出来るものではなく、作るものだ」というのがあった。これは誠に正しい。でも実際には「友達を作った」とは言わない。挨拶を交わしただけでは友達になり得ないが、入口は真にここである。そしていつの間にか、互いに相手を友として意識するようになる。1日や2日で叶うものではない。

「一人でいるのはさびしくない」でも「一人ぼっちと思われるのが恐い」・・・これは、ねじれた感情だと思う。子供がおもちゃに囲まれて、おもちゃでの遊びに没頭しているときは、一人とは言わない。遊びに夢中になっていることで、心に隙間ができていないからである。そんな、ひとり遊びの状態から、子供は「共通の趣向を持つ他の子供」とコミュニケーションを取るようになり、そして「友達」となっていくのである。

「レンタルフレンド」を申し込み、連れ添って何かをしたり、どこかへ訪れてても、そのような心の隙間は開きっぱなしの状態なのではないだろうか?・・・ただただ「一人ぼっちじゃない」という「偽りの安心感」を身に纏っているだけで。

我が娘も人見知りが激しく、初対面の相手にはまだまともに挨拶も出来ない。でも友達は多い(みたいだ)。人見知りのくせに世話焼きだからかも知れないが、人間、そうやってどこかしら、人とのコミュニケーションを図る「道具」を持っているものである。

「友達が出来ない」「出会いが無い」というのはエゴである。自分の心も打ち明けないのに人の心を知りたがってはいけない。

でも、現在はそんな「非肉食系」ばかりかと言えばそうじゃないのでホッとする。そんな社交的な人は、引っ込み思案な人を積極的に連れ出してあげてほしい。そして、誘われた側も、なんの理由もなく一方的にコミュニケーションを拒絶してはいけない。そこまで面倒臭がっていたら、それこそ人間らしくなくなる。



※Facebookで全く同じ記事を載せてますが、規制のため一部表現を変更しています。

「食事中のスマホはマナー違反? 気にしながらもやめられない現実」というウォール・ストリート・ジャーナルの記事を読んだときに、真っ先に思い出した人がいる。通い始めて16年ほどになる、某ビア・バーのマスターである。



マスターは最近よくボヤキに似たことをよく口にする。「最近、若い人でもなんでも、電車の中でずーっとケータイ覗き込んで・・・ありゃ何を見てるんでしょうねえ?」


ケータイとはもちろん大多数がスマホのことである。さらには、「何を見てる」と言うが、マスターがスマホやケータイについて無知なわけではない。Webを閲覧したり、メールを打ったり、あるいはゲームをしていることはもちろん知ってる。


これは別に、スマホを電車の中で見てはいけないとか、スマホでゲームをやってはいけないということを言っているのではないが、マスターの気持ちも解らないではない。マスターに「あなたも電車の中でケータイ見るときはなにをしてるんですか?」と問われた。「(私は)多くはニュースをチェックしたり、会社のメールをチェックしたりしている。」と答えると、「はあ、それならまあ良いでしょうけど・・・」と返しつつも、やはり電車の中でスマホやケータイを凝視する若者らを気に食わないわけだ。


理由は単純かつ合理的で、スマホに夢中になる挙句、自分の周りへの一切の気配りが無くなってしまっている人が多いからだ。まるでニンテンドーDSに夢中になっている幼い子供のように、である。



これだけではない。つり革につかまってのスマホは疲れるので、やはり座りたくなるのだが、それを優先するあまり「携帯電話の電源を切れ」と明記されている「優先席」に悠然(ゆうぜん)と座り込んでスマホやっている人が最近特に多い。これだけスマホを普及させたのは携帯電話会社の仕業だが、その昔、優先席にどっかり座って新聞を読んだりする人はそれほど多くは無かったはず。それなのに、である。


彼ら彼女らの言い分はおそらくこうだ。「スマホやって何が悪いの?周りだってやってるじゃん。」周りが迷惑しているのはスマホをやっていることだと思って疑わない人間の「正当化」だ。このように論点がずれている人間に対しては、何を言っても無駄。無駄だから注意されなくなる。本人がスマホに夢中になっているその隣で、心臓ペースメーカが異常をきたして人がぶっ倒れても、その理由に一生気付かない。ある意味、幸せ者であり、またある意味、悪魔である。


スマホに夢中になるあまり、周囲が見えなくなっている人は至る所に居る。混み合う自動改札機の前、階段、エレベータのボタンの前、並んでるコンビニのレジ、もう青になっている交差点、狭い歩道・・・。


何処なら良くて、何処ならまずいか?この区別がつかない人は、スマホを使うのはやめた方がいい。



スマホの出現によって、新しいライフスタイルが確立された、といっても過言ではないが、多くの人が、スマホに踊らされているとしか思えない。言うまでもないが、電話が使え、メールのやり取りが出来るのはもちろん、ニュースを読んだり、何かを調べたり、様々なアプリによって何にでもとって代われるのがスマホである。しかし、スマホはあくまで人が使う「ツール」に過ぎず、方々に散らばった情報を手のひらの上に纏め、そこで使う人が下した判断をもって、また離れた誰かと情報を共有したり活用したりするツールなのである。


周りが見えなくなっている人は、まさにマトリックスと同じで、スマホの中の(特にWebの)世界に自分を繋いでいる間、永い眠りについてしまったかのように、周りの音や声などに全く反応出来なくなってしまっているのである。


要は、一人っきりの場所でそのように集中してるのは別に悪いことでもない、ということだ。あるいは、ツールとしてのスマホ、情報源としてのスマホという使い方で、その場所に一緒に居る誰かとそれを共有するのであれば、正しい使い方だと言えるのではないか。



某ビア・バーのマスターはそう言いながらも、Google Mapはえらく気に入っていた。何年も前の地図を大事に持っており、「ここは今こう変わっていて」と、古い地図であることを認識しながらも、地図は地図としてかなり有効に使っているようだ。Google Mapに代表されるWeb地図は、常に最新情報に更新される他、GPSと連動して自分の居場所も間違えず把握出来、知らない場所の道案内までしてくれる。


マスターは歩くのが好き(御歳75歳!)で、こんなマスターがスマホに買い替えるかどうか(かなり勧めているが)判らないが、もしスマホを手にするようなことがあったら、序説のような偏見じみた言葉ではなく、もう少し柔らかい意見になるのかもしれない。

ここ最近に思う。

数年前まではホームページや、blogにて幅をきかせていた輩がついにというかなんというか、

更新という作業をしなくなったということだ。

そりゃあmixiやfacebookがメインになっている人も多かろう。

しかし、古巣のblogをそのまま放置して行くこともあるまいよ。

いままで、なんのためにblogで情報発信してたんよ?

ただの腰掛けだったんかよ?

まあ、趣味の範疇を抜けない人が大多数のこの世界。ほざいても仕方ないのはわかってる。

でも、そういう人に限ってさ、移行先でもあんまり書いてないんだよね。

どうなんだろ?

「誰かが読んでる」という気持ちで書いてたら、そんな風に簡単に何処かへ行ってしまわないはず。




ご意見、お待ちしてます。

(2011年最後の投稿)


一番じゃなきゃダメですか?

 
 一昨年の「事業仕分け」であの蓮舫が放った有名な言葉です。ある人は「やっぱり一番じゃなきゃダメなんじゃないの?」と考え、またある人は「別に1番にこだわる必要はないんじゃないの?」と考えます。自分が「あの言葉」を耳にしたときは「何言ってるの蓮舫は?元キャンギャルが政治家になってもこの程度か」などと半ば失礼なことを考えたものですが、当時の蓮舫にとっては「いかにしてお金の掛かる事業を潰すか」がミッションであって、この科学技術立国ニッポンにとって、同分野における「世界一」の重要さなんてどうでもよかったのかもしれません。
 
 むしろ、なぜ科学技術分野において「一番」であることが重要なのか?それをわかりやすい言葉で国会に、あるいは国民に説明できなかった行政や団体がイケてないというのがとても残念なことでした。結局今までは単に予算の申告をしさえすれば、どんなに無駄な費用が盛り込まれてようが血税を投入されていた事業が沢山あったということなのです。「なぜ世界一になる必要があるのか」「世界一になるためにはこれだけのお金が必要」等という、国民から集めたお金を使っていく上でとても大事な説明を、それを運営する所にいる人たち=事業仕分け会議で説明する人が理解できていないこと自体がまずいのです。借りてきたネコのように目が泳いでいて、誰かが作った資料を棒読みするだけで高い給料をもらっているなんて思ったらとても腹が立ちます。
 
 不甲斐ない対応の行政よりも、蓮舫の暴言にも取れる腹立たしい発言が話題を支配した2009年、そして何もかもが尻すぼみになっていき「日本の元気がなくなっていく」ように見えた2010年から明けた今年、未曽有の津波被害をもたらした大震災と、それによって始まった「原発パニック」。この事故を目の当たりにした国民は皆思ったことでしょう。「ああ、やっぱり蓮舫の言ったとおりだわ」と。本当に必要な部分にお金を使ってなかったんです。

科学技術立国ニッポンじゃなかったのかよ?「原発は安全」じゃなかったのかよ?
大画面液晶テレビよりも高いガイガーカウンターがバカ売れするなんて前代未聞ですよ。 

おそらく、技術は世界一といってもいいレベルにいつもあるんだと思います。でも・・・・人が。
 
 JR福知山線脱線事故も、電車が壊れたわけじゃなく、執拗なノルマを課せられた運転手のスピード超過が原因。阪神大震災で倒れてしまった高速道路は「一番弱い方向に揺れた」等と言われていますが、実のところ、手抜き工事が原因(杭等処理を怠った)とも言われています。



 
今年は忘れられない1年となってしまいました。しかし、嬉しいニュースもありました。
 
 富士通㈱が製造を担当したスーパーコンピュータ「京」が、世界一になりました。そして、大震災という惨事をくぐり抜け、東京スカイツリーが自立電波塔の世界一として完成。営業開始は来年ですが、クリスマスの夜はスペシャルバージョンのライトアップを見せるなど、人々の気持ちを前向きにさせてくれました。
 
 国策や競争という分野では、国にお金を集め、国民の生活を豊かにするために「一番」というのが重要視されたり、競争なんだから一番が重要なのですが、そこまで競争する必要のないフツーの生活の中では、「絶対に一番」になる必要はありません。しかし、一番になるということは「従来のものを超える」ことであり、誰もがやったことのない方法を試みたり、前例や経験が無いため「どうやったらうまくいくか」までもが未知の世界となります。
 
 つまりは、一番になるつもりで試行錯誤や努力を重ねていくと、そこにブレークスルーが生まれるのです。あのフリスクのCMの「Hello! Idea」がまさにそれです。これは日常生活にも応用できる考え方で、別に誰かと争ってないようなことでも(例えば、料理をもっと上手に作れるようになるとか、です。)「どうやったらもっとうまく出来るか」「どうやったらもっと時間が短くなるのか」といった「どうやったら~」を常に考えるのです。そしてうまくいけばそれは経験、あるいはスキルとなり、次からは「○○はどうやればいい」となり、レベルアップ出来るのです。
 
我が娘を見ていると、毎日がブレークスルーの連続です。
子供ってスゴイ。
 
結果的に一番になれなくても、一番を目指す姿勢や、そのような目標を持つことは続けたいものです。
誰かから強要されたのではなく、自分で見出した目標に向かっている時の試行錯誤は楽しいものです。

ワタシも、考えることは大好きです。
それが仕事の時もそうだし、特には家で日曜大工や趣味のラジコンなど、ぽっとアイデアがひらめいたときはとても嬉しいものです。
 
 
努力って=楽しい。(by SoftBank) 
 
 
1番じゃなきゃダメですか?・・・・・はい。ダメです。とにかく一番を目指してください。そんな体(てい)で。

今年の流行語大賞トップ10入りした「絆」の1文字。ホントは流行語なんかにしちゃいけないフツーの言葉です。

 こんなことを書くと、「フツーの言葉なんかじゃねーよ!」とにわかにいきり立ってしまう人が少なくないかも知れませんが、勘違いしちゃいけません。「フツー(普通)」とは「普遍的な通常」の意味で、「普遍」とは哲学上、「いつ、どこで、変わることなく誰にでも当てはまること」あるいは「真理」の意味を持ち、「通常」とは「特別の事情がなく、いつもどおりであること。」の意味があります。 もしも「絆」が「フツー」じゃなかったら、それは何か特別な事情があったから出来た「絆」ということになるのではないでしょうか。

 「だったらどーよ」という人が居るかも知れません。人が誰か(ほかの人と)つながっていたいというのは本心でしょうし、あんな大変なこと(もちろん3・11のことです)があった後なんだから特別以外の何者でもないと考える人も多いと思います。ただ、「強い絆で結ばれていた」や「絆を強めた(× 深めた)」なら、「つながりを再認識した」「改めてその大切さに気づいた」という意味に取れますが、「絆が出来た」のように、そういうことがきっかけで出来た「絆」があったとしたら、それは本当の「きずな」なのでしょうか?

 流行語大賞の文字は「絆(漢字1文字)」ですが、実は2つの読み方、意味がありました。それは「きずな」と「ほだ(し)」です。

 「きずな」はテレビなどでは「人と人との深いつながり」や、果ては「友情」と同じ意味で使われたりしていて、ほとんど多くの人がそんな意味合いで「絆」を用いますが実際には「(人と人との)断つことの出来ないつながり」というちょっとクールな意味もあります。その一方で「ほだ(し)」は、自由を妨げるもの、束縛、足かせなどの意味があります。両方とも、そもそもの「絆」の語源である、馬などをつなぎ留めておくものという意味に帰属するのですが、テレビなどが「絆」と書かずに「きずな」と書くのは、読みやすいだけでなく、「ほだ(し)」と読ませないようにするためだと思います。これこそ「ほだ(し)」ですけど。

 冒頭に書いたように、「絆」は「フツー」の言葉です。「フツー」はとても大切なのです。だから、流行語大賞に選ばれちゃったりするということは、本来の意味やその言葉の存在を、名声のためだったり、視聴率のためだったり、金儲けのために利用した人が、今年はより多く居たからだったのではないかと考えると少し悲しくもなります。本当の「(心の)絆」はそういうものじゃないですから。

 だから、JAXAのインターネット衛星のネーミングは大嫌いです。本当の「絆」は、衛星が壊れようが打ち落とされようが切れっこないのですから。



 (余談その1)
 犬を飼っている(犬と暮らしてる)人は、試しに(ドッグランとかの安全な場所限定で)そのリードを離してみてください。リードこそ、本来の意味の「絆」です。リードは犬の自由を奪うものでもあり、犬を守るためでもあるのですが、心の絆で結ばれた飼い主と犬なら、愛犬が勝手に離れて行ったりしないはずですよね。

 (余談その2)
 3・11では米軍による「トモダチ作戦」が遂行され、これにより日本人のアメリカに対する高感度が向上したという報道がありました。ただ、「"トモダチ作戦"によって日本とアメリカの絆が強まった」と誰かが書いたとしたら、それは非常に正しい意味で使われたということになるでしょうね・・・・両方の意味で。

「駅前放置自転車クリーンキャンペーン」と銘打って、オレンジ色のタスキを掛けたおじちゃんおばちゃんが駅前でチラシとティッシュを配ってました。
ティッシュに中にもキャンペーンの広告が入ってるのに、チラシまで配ったら絶対ゴミになりますがね。
自転車の話題は最近盛り上がりっぱなしでネタが尽きませんが、そもそもどうしてそんな問題が起こるのかを行政が本気で考えているとは思えません。
すべての行政がとは言いませんが、少なくとも地元の行政は・・・ひどいなあと思います。
なんだか、単に「撲滅キャンペーンやってます」って主張するだけで抜本的な解決策については一切示さないのです。
ただ、これってすごく難しい問題で、同じ行政区の中でも放置自転車が皆無の駅もあるわけで。
居住人口の問題じゃないです。官と民の連携と取り組み方の問題だと思います。
私の住居の最寄り駅は、東京メトロとJRの相互乗り入れ駅(かつては国鉄専用駅でした)で、ある意味特殊な条件を備えています。
さらには、2つの行政区が入り混じった場所に駅は存在し、最寄りの月極め有料駐輪場は区境の上にあったりします。
(ここまで書いたら特定されちゃいますがオフレコで)
つまるところ、行政同士の責任のなすりあいの場となっているのです。
また前述の「特殊な条件」とは、メトロとJRの相互乗り入れ駅という特質上、ひと駅違うだけで初乗り料金が加算されるという手前、そのひと駅を自転車によって埋め合わせる利用者がとても多いということです。まあ、言うなれば「自転車で来る人」=「メトロ利用客」なわけで。
メトロの駅の放置自転車って酷くないですか?醜くないですか?
メトロだけに、駅が地下にあって自転車を置く場所が地上になってしまうから?いやいやそんな言い訳は通用しません。「つくばエクスプレス」の浅草駅にある地下駐輪場はすごいですよ。チャリ用のエスカレータまでついてます。お金は確かに掛るんですが、営利企業でお金をもらって電車を運営してるんですから、そのくらいの企業努力は必要ですよね。
ましてや、私んちの最寄り駅は地上駅です。昔JRが作った高架下の駐輪場もいっぱいいっぱいで、メトロ側の私有地となっている駅の真下のスペースは高い賃料設定でテナントを入れて私腹を肥やしています。
東京都が買収に乗り出そうとしたのも解らなくないですね。

話がかなり脱線しましたが、根本的な原因って、そんなところにあるんじゃないでしょうか。
私は電車を利用するときには駅まで徒歩です。それは近いからだろうと言われてしまうと身も蓋もないですが、実際、もっと遠くても歩く人は多いし、私より駅に近い人でも自転車で行く人は居ます。
「にわとりたまご」的な話になってしまいがちですが、もっとちゃんとした利用しやすい駐輪場が駅前に増えれば放置自転車率は減るでしょうが、そもそも置く場所も無いのに乗って行って、他の人もやっているからと平気で路駐する人が多すぎです。クルマもまたしかり。
「社会的責任」というとすごく重たい話になりがちですが、我が家の近所のスーパー(個人営業)も最初はお客さんの自己責任、あるいは良識に委ねて店の外のことにはほとんど目を向けていませんでしたが、利用者が増えるほど潜んでいた問題が露呈するようになり、最初は路上に並んだ店舗利用者の自転車の整理(きれいに並べ直すなど)をはじめ、今では数台分の駐車場まで用意し、地域の理解を得るばかりでなく店舗自体が利用しやすくなってまた最近は客数が伸びている感じです。
駐車場まで準備するとなると、人手だけでなくお金も出ていきますが、その経費は朝、店をあけてほんの数分で元が取れる程度のものです。これが企業努力というものです。
放置自転車問題も、実はそんな難しい話ではないのです。

対案なき批判は単なる罵言雑言と言われても困るので、締めくくりにアイディアを。
・駅前自転車駐輪場のオペレーションを変更する。
 →Suicaだろうがなんだろうが、とにかく綾瀬発の定期券を持ってる人を優先的に月極登録できるようにする。
・駅に用事がある人はたくさんいるのだから、ちゃんとした「路上駐輪ルール」をつくる。
 →行政だけでは成し得ないが、駅周辺道路を一方通行化して、自転車を留めるスペースをつくる。

でも、一番の抜本的施策は、有識者の一部がよく言う「自転車の免許制度」なんですよね。

 閉め切った室内で薬剤を散布する薫煙型殺虫剤を使用した際、反応した火災警報器を止めようと室内に入って薬を吸い込むトラブルが2008年度に13件報告されていたことが29日、厚生労働省のまとめで分かった。
 それ以前は年間0~4件程度で、同省は06年に住宅用火災警報器の設置が義務化されたのがトラブル急増の一因とみて、注意を呼び掛けている。
(2009年12月30日のWebニュースより抜粋)
 
 
両親の旅行とわが娘の幼稚園の夕涼み会が重なり、我が家は久々に半日ほど誰も居ないことになったので、チャンスとばかりに「家まるごとバルサン作戦」を敢行したのですが、そこには重大な落とし穴が隠されていたのでした。
 
とにかく、梅雨も明けた7月9日の夕刻に、暑いのに窓という窓を閉め切り煙を焚くのですから、セットする順番がすごく大事です。まず窓を閉めて回り、娘を先に外へ出し、そして玄関からもっとも遠い部屋から順にバルサンをセット。ただ、バルサンは水を入れるタイプで、水を吸ってからおよそ2分程度で発煙が始まるので、フツーなら余裕で脱出出来ます。
 
しかし今回ばかりは違いました。
 
両親の使うリビングに最後のバルサンをセットしたそのとき、2階の自分たちの部屋にセットしたバルサンが住警器(火災報知機)に反応、次々に発報し出したのでした。
 
 
「し、しまった・・・・・・!」
 
 
あわてて階段を駆け上がると、2階はまるで火災の火元のように煙にかすんでいました。住警器からは「火事です!火事です!」という音声とともに鳴り響くけたたましい警報音が。住警器についているボタンを押せば止まる事を知っていましたが、あわてて2階へ上がったせいか、フツーに呼吸をしてしまい、まるで催涙弾を食らったように悶絶!マジでその場で吐きそうになりました。苦しみながらもハタキ(埃叩き)を手に取り、棒の先でボタンをなんとか押して回り、涙目になりながら脱出・・・・・・。
 
バルサン、かなりやばいですね・・・・。
 
すると外でキョトンとした目で待っていたわが娘の小さな腕に蚊が1匹・・・・・・・・・。
 
「お父ちゃん、シュッシュ(虫よけスプレー)してないよ。」
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・。
 
 
 
・・・・・・・・・・ギャー。
 
 
 
虫よけスプレーは2階の部屋のテーブルの上にありました。
 
今度は外で深呼吸(まだ喉がおかしい)してから大きく息を吸い込み、口を押さえてダッシュ!・・・たしか「ディスカバリーチャンネル」の番組で、催涙弾の煙幕の中を40km歩くというすさまじい米軍レンジャー部隊の訓練があり、そのような環境下でも「小刻みに行えば呼吸が出来る」ようなことを言っていたので早速マネしましたが、そんなことをしていたら今度はホントに倒れる!!すぐさまスプレーをつかんで再脱出しました。やれやれ。
 
 
その後、汗だくになりながら娘と夕涼み会へ。夜、家に帰るまで一切虫という虫が寄ってきませんでした。
 
 
バルサン恐るべし!(決して悪用してはいけません!)
 
 
 
注:フツーは、住警器にビニール袋をかぶせる等の準備をしてからバルサンをしなければいけないのだそうです。でも面白いな。ガス漏れ警報器は一切反応しませんでした・・・・。

ダンロップ、女性向けタイヤ「KiRaRi」を発売

 ダンロップの住友ゴム工業は、女性をターゲットにしたタイヤ『KiRaRi(キラリ)』を4月8日(金)からダンロップの直営店・タイヤセレクトで限定販売する。
 このタイヤは、2007年から社内啓発活動として展開している“Love Your Work!プロジェクト”の中で、2009年からスタートした全社員を対象にしたアイデア公募と、通常は商品開発業務に関わっていない社員を含めた、女性を中心とした社内横断型のプロジェクトチームによって開発された。
 軽自動車に乗る女性をメインターゲットに、タイヤのトレッド部、サイドウォール部に星をイメージしたデザインを採用するなど、ファッション性を重視。また軽自動車に求められる運動性能、快適性能を高次元でバランスさせるとともに、低燃費タイヤの基準を満たすことで高い環境性能も実現している。
 その低燃費タイヤの基準では、ラベリング制度で転がり抵抗“A”、ウェットグリップ性能“d”を獲得。サイズは、155/65R13の1サイズで、価格はオープンとなる。

2011年4月4日 CARVIEWニュースより抜粋
CAR VIEW ホームページURL http://www.carview.co.jp/


 155/65/R13の汎用タイヤの価格はディスカウントショップでおよそ12000円/4本。クルマの主要消耗品としてはまあ安いと思います。けど、タイヤって、そう、消耗品なのですよ。気分を変えるのに取り替えるヘッドランプバルブとか、エアロパーツやシートカバーとは違い、履き替えるチャンスなんて(スタッドレスタイヤならまだしも)そんなに巡ってこないのではないでしょうか?また、タイヤだけじゃなく、ホイールのインチアップもしたい場合、このサイズではインチアップに繋がらず、鉄チンホイールを残したままタイヤだけ交換って、どれほどの人が行うのでしょうか?非常に興味深いところです。

 と、タイヤそのものに興味を惹くかは別にして考えてしまいましたが、そもそも、このタイヤは商品としての訴求力に欠けている気がしてなりません。サイドに星をあしらうなど、見た目は確かに大事なのですが、見た目以上にタイヤそのもののフィールや絶対性能などを多くの女性が好む方向に作りこめているのでしょうか?

 転がり抵抗が軽いのはよいでしょう。燃費への影響だけでなく、ハンドリングも軽くなるため、この方向は間違えてない気がします。しかし、ウエットグリップ性能がラベリングでの最低レベルであることが気になります。車種によっても違うでしょうが、とっさのブレーキ時にタイヤが滑ることを恐れてブレーキを強く踏み込めない(ABSを作動させられない)といいます。グリップの低いタイヤでブレーキの踏み込みが弱いと、制動距離が大きく伸びます。これはいいのでしょうか?

 商品開発に関して言えば、例えば、ターゲット層の女性が運転中にもっともよく聞く音楽ジャンルで多く使われている音(周波数)の中で、タイヤノイズによってかき消されて音質が悪く聞こえる部分をテクノロジーによって解消するとか、トレッドパターンの工夫により、タイヤハウスの外への泥はねが少なく、クルマのサイドが汚れにくいとか。あとやっぱり、トレッドパターンの中にハートマークのブロックを入れて、(水たまり通過後に)路面にさりげなくハートマークが付くとか・・・・・・。女性向けに作るならそのくらいのスペシャルな感じがあってもいいと思います。

 ル・マンやエナセーブとも違うとレッドパターンで、ダンロップがマジメに開発したタイヤであることは間違い有りません。しかしながら、クルマ自体が売れないこのご時勢です。「KiRaRi」をメーカーオプションに設定したらクルマの売り上げがアップする、というくらいの商品力をつけてもらいたいものです。そして、他のメーカーがやっていないことをやったのですから、オンリーワン商品として「女性専用タイヤ」くらいの勢いをもって売り出してもよかったのではないでしょうか??

 まあ、タイヤの金型を作るのも大変なので、こういう商品展開になってしまうのも理解出来ますが・・・・・。
 
 こういうジャンルはまだまだ市場が確立されていないから難しいですよね。


 ところで、このタイヤ買ったら、トーゼン「KiRaRi」ステッカーが2枚おまけでもらえるんですよね?
 
 だって、主張したいじゃないですか。

東京ディズニーリゾートが4月6日より一部再開する、という情報が流れたあと、それを否定する報道があったり。まあいずれは再開するでしょう。計画停電を強いられる中での営業時間を短縮しての再開となることは必至でしょうが、何よりも旅行会社からの強い要望があるのは間違いなさそうです。

パチンコ屋やキャバクラが自粛ムードの中でも営業を続けていることについてネット上で文句をたれる人が居ますが、パチンコ屋だって営業時間を短縮しているし、キャバクラだってネオンを消して営業しているところもあります。そしてなによりも、それが間違いなく企業?として活動であって、セレモニーや花見を自粛するのとはワケが違うということです。東京ディズニーリゾートはパチンコ屋やキャバクラより健全と言う話もありますが、なによりも店を開かなければ抱えているキャストたちに給料を払うこともままならなくなるから再開は当然の話です。このへんはパチンコ屋だろうがキャバクラだろうが同じこと。大きな水槽を持っている水族館なんか、一切の電気を停めてしまったら"資産"であるお魚たちがみんな死んでしまいます。節電や自粛というのは日常生活の上では行いやすくても生産活動を行う企業としては死活問題なのです。
さて、ディズニーランドが営業再開すれば、またかなりのお客さんが訪れるでしょう。そうすれば、周辺の交通機関、旅行会社、ホテル、お土産を製造する会社等等にお金が回るようになります。旅行会社は旅行会社として機能することで、またバスや飛行機、鉄道会社にお金が回り、バス会社はバスを運用するために燃料を買い求め、石油会社にお金が回ります。石油会社が利益を得れば、より多くのお金を被災した石油精製設備の復旧費用にあてることが出来るようになります。設備の復旧が進めば、燃料等商品の生産が増加し、より多くの燃料を消費者側に供給できるようになります。より多くの燃料が得られれば、それを使用する建設機械の稼働率も上がり、被災した道路の再整備や瓦礫の撤去、仮設住宅の建設などがより進むようになるでしょう。
これが「経済活動をまわすことこそ復興の近道」と言われる所以です。
それなのに、何故ここまで自粛ムードを盛り上げようとしているのでしょうか?今、国内で盛り上げるべきは経済なのに。
上野公園や墨田公園は例年であれば昨日今日は花見で盛り上がるのですが、今年は公園側から自粛要請を謳う掲示が出ているそうです。昼間はともかく、夜はぼんぼりにも灯が入りません。
 
しかしこれによって経済的な大打撃を受ける弁当屋さんや惣菜屋さん、酒屋さんがあります。全国的な自粛ムードの中、来場者数が減るのは解りますが、公園サイドからやるなと言われるのは少々理解できません。場所を提供する側から自粛を促されているというのは、自粛ではなく、単なる「花見禁止」です。夜のぼんぼりが節電のために点灯しないというのは解りますが、この様子だとベンチでフツーに缶ビール持っているだけで嫌なムードになるかもしれません。
阪神淡路大震災の年は、東京ではこのようなことは有りませんでした。やはり何よりも、福島原発が被災したことにより、首都圏への電力供給が大幅に落ち込んだことが何よりの理由なのでしょう。だから、今回、震災の影響を受けなかった中京以西のエリアの人たちは、いつもどおり盛り上がって欲しいものです。
 
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わが地元の仲間は昨晩、例年通り花見会を開きました。明かりもインフラに頼らず、自前でオイルランタンなどを準備して行いましたが別に今年に限った話ではなく、去年もそうしているのです。1ヶ月以上前から計画し、役割分担を決め、時間厳守で集合し、夕刻の5時半からスタートしました。17人が集まり、おでん、もつ煮込み、ラーメンまで始まっちゃいました。その傍らで日本酒を燗して温まりました。こういう時代だからこそ、何事も無かった人たちまで湿っぽくなってはいけないのです。
 
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ところで、東京ディズニーリゾートはガスの自家発電設備の建設を考えているそうですね。計画停電に左右されにくい営業を目指すことと、首都圏の電力不足を補う意味合いもあるでしょうが、私が思うのは、何よりも来場者の安全を考慮してのことだと思います。とっさの大規模停電発生時に、アトラクションの乗り物に閉じ込められてしまうお客さんが出ることの無いように、だと思います。他のテーマパークや事業体も、ディズニーランドを見習う部分はたくさんあると思います。
 
いい意味で、震災はさまざまな教訓を我々に与えました。いつもどおりにこれからも振舞うために、日常生活の中で常に考える必要はあるのです。

土曜日、急ぎの用事をやっつけようと休日出勤していたのですが、当然のことながら平日とは違ったゆったり感。
 
ひごろは見過ごしてしまうこんな張り紙も、我に返ってまじまじと見てしまうものです。
 
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産業医の指導で、トイレの手洗い場の鏡に貼ってあるやつです。
 
インフルエンザなど、感染症にかかりにくくするための正しい「うがい」とか「手洗い」の方法が書いてあります。
 
産業医の指導でトイレに貼ってあるものですから、当然、女子トイレの鏡にも貼ってあると推察されます。
 
同じものが・・・・・・・。
 
一字一句同じものが。
 
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これって、一般名詞なんでしょうか?
 

今日はビキニデー(3月1日)

1954年3月1日、アメリカがミクロネシアのマーシャル諸島内・ビキニ環礁で水爆実験を行いました。

ビキニ環礁での水爆実験はこの時が最初ではなく、1946年から行われていたものですが、この1954年の
「ブラボー実験」の際、爆心地から150kmほど離れていた所で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が
死の灰を浴び、無線長の久保山愛吉さんが亡くなるなどの放射能被害を受けました。日本ではこれを機会に
一気に反原子力運動が盛り上がります。

【地元の被害】
ビキニ水爆は日本の漁船だけに被害をもたらしたのではありません。

現地のロンゲラップ島の住人も多数被爆しました。当時、空から白い灰が降ってきたのを、そんなに恐ろしい
ものとは知らず子供たちが灰の中ではしゃいで遊んでいたといいます。
また髪の毛が抜け出すとそれも面白がり、誰が一番たくさん抜けるか競争していたとのことです。

当時アメリカ政府は予想外の風向きの変化で島に死の灰が到達してしまったと説明しましたが、後に
情報公開法に基づいて公になった政府文書では、住民に被害が及ぶのは承知の上で実験を強行した
ものであることが明らかになりました。

それによると風向きの変化は分かったものの、アメリカの軍艦だけを安全域に移動させ、住民の避難作業は
行わずに核実験を実行してしまったのだということです。

【消えた島】
ビキニでの水爆実験は合計67回にも及びました。この結果爆心地の3つの島がこの世から消滅し、
今では低い岩礁がところどころに顔を出してかつて島があったことの痕跡を微かにとどめています。

ブラボー実験の水爆の威力は広島型原爆の1000倍であるとのことです。アメリカは1989年にもう
ビキニ島から放射能はなくなったとの報告書をマーシャル諸島共和国に提出しましたが、共和国側は
この調査の内容は信用できないとして報告書の受取を拒否しました。

最大の被害が出たロンゲラップ環礁のほか、近くのウトリック環礁・アイルック環礁でも甲状腺疾患・
白血病・流産・死産・子供の発育異状などの放射能障害が長年にわたって発生しています。
水爆によってできた大きなクレーターの中には今も魚は住んでないそうです。

【ゴジラ】
日本の怪獣映画史上最大の名作シリーズ「ゴジラ」が公開されたのはこの第五福竜丸が被爆した
年1954年の11月でした。ゴジラは核実験の衝撃で長年の眠りから目覚めた恐竜で、放射能の火炎を
吹くという設定で、これは反核の作品でもあるのです。

【ビキニの水着】
ビキニの水着というのは、ビキニの水爆のように衝撃的な姿である、ということでフランス人の発明家
ルイ・ルアール(1896?-1984)が考案・特許を取ったものです。

日本には1967年に初お目見えしました。1970年代にかなり普及しましたが、1980年代に入ると
体型のカバーができるワンピース型の方が主流になりビキニはほとんど着られることがなくなりました。
復活してきたのはここ数年のことでしょう。

(Stargazer 占星暦のご案内ページより抜粋 http://www.ffortune.net/


知りませんでした。
ビキニの水着の名前の由来がそうだったとは・・・・。
しかし、最後のくだりは偏見に満ちている気もします。

もし、この世の中に『ホンマでっか!?TV』を教養番組だと思っている人が居たら、、もうTVは観ないほうが良い。
 
なぜなら、物事の良し悪しとか分別がつかないばかりか、人が言った事をそのまま真に受けてしまう素直すぎる
 
人だからで、あんな名立たる教授陣やプロフェッショナルが解説するものをすべて正として取り込んでしまうから
 
である。
 
 
 
と、いきなり物々しい書き出しで始めてしまったが、つまりそういうことである。
 
此間の『ホンマでっか~』でのテーマが、「危ない人間関係SP」ということで、水商売のトップが決して美人じゃない
 
とか、舌打ちは更年期障害が原因かも、といった事実や研究の成果に基づいたコメントに混じって、やはり事実に
 
基づいた「アメリカのシカゴ大学の研究報告で、メールが正しく伝わる確率はたったの5割」という事実が
 
言い渡された。ちなみに、正しく伝わっていると思っている人は9割だという。
 
ただし、これがあくまでアメリカのシカゴ大学が発表しった内容で、その数値が全世界の平均値なのか、アメリカ
 
に限った話なのか、あるいは、シカゴ大学の学生を調査した結果なのかを一切言ってない。
 
このあたりは、情報バラエティの得意とするところで、事実の一端のみ大きく公表し、他のネタと混ぜてうやむやに
 
してしまうといういつもの常套手段というだけのことである。
 
 
「メールが正しく伝わる確立はたったの5割」は、おそらくは英語圏の話ではないかと推察する。
 
英語は特に、ボディランゲージという言葉があるように、ジェスチャーやイントネーションの付加によって単語の
 
意味をいくつにも変化させられる言語で、たとえば「Excuse me」は多くの場合は「すみませんが」や「失礼ですが」
 
の意味で使われるものの、言い方によっては「いただき!」「悪かったな!」「待てコラ!」と変わる。
 
 
 
日本語の場合は、(但し、日本語を正しく使うという前提で)少なくともこんなことは無いでしょう。
 
「恐縮ではございますが、今回の件に関してはご快諾いただければと存じます」と日本語ではビミョーな表現が
 
出来ても、英語だと「悪いが、今回は首を縦に振ってもらうぜ」となりかねないということなんだろうと思う。
 
そんな風にうまく書いたつもりでも、やはりメールはメール。100%はありえないのであるが。
 
 
 
しかし、日本人もまたしかりなのは事実である。
 
Yahoo!知恵袋などを読むとそんな傾向がつかめるのだが、人間関係に悩んで質問を投稿する若者
 
(特に中学~高校生)のほとんどが、「メールはもうしないほうが良いのでしょうか?」とか
 
「どんなメールを打つのが相手を一番傷つけませんか?」と言った内容なのである。
 
結局、メールを使うにしても、それ以前に日本語をうまく使えていないきらいがある。
 
確かにメールでは誠意なんか伝わらないし。十数年来の付き合いの親友相手だってさえ、1本のメールによって
 
関係がこじれることは良くある。
 
 
つまるところ、メールでは真実の半分も伝わらないというのはあながち間違っていないということなのだったり
 
する。これはあくまで英語圏の話じゃないの?と思わせつつも、結局は日本人だってその人格や性別、処遇や
 
生活環境など様々な差異によって、メールに書く内容や直接伝え合う言葉、信頼できる人間の差異、いろいろな
 
ものが人それぞれ違ってきて当然であって、日本人が書くメールもまた、徹頭徹尾完璧な慣用句をちりばめて
 
書かれたありがたいメールだってその慣用句の意味をちゃんと知らなきゃ伝わらないわけである。
 
その逆もまたしかり。
 
 
 
そう考えると、様々なジャンルの知識人を呼び、様々なテーマをぶつけてあーだこーだ言い合い、それをさんまと
 
いうこれまた頭の良い芸人が取りまとめるという、頭を使ってそうで実はそんなに使わなくて良い、という
 
バラエティが『ホンマでっか~』だとすれば、これは良い娯楽番組だと思うのである。

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自分がこの歳になり、そして自分の子供にこうやって自転車を買い与えるまで知りませんでした。

はっきり言います。



子供用自転車は危険である。



すべての商品がそうだとは言い切れませんが、少なくとも子供が乗れるサイズとして売られている通常の

廉価な自転車にはすべて言えそうな気がします。


子供用自転車でも、小学生が乗ることを前提としているのなら、それほど危険度も高くはないでしょう。

14インチあたりからラインナップされている子供用自転車は、100cmそこそこの身長の子供が乗ります。

というか、そのくらいに親が買います。

しかし、実際に乗らせてみて気づいたことがあります。それは・・・・



「ブレーキが重過ぎてかけられない」



ということでした。

たとえば20インチ程度の小径車と比べても、大人用に比較して当然サドルも低いし、ハンドルも小ぶりです。

でも、前輪の挟み込み式ブレーキや後輪のベルト式ブレーキのスペックは、大人用とさして変わらないのです。

だったら安全でしょ?とは一瞬思うことで、子供の握力ではブレーキレバーを引ききれないのです。

理由はカンタンで、ブレーキレバー以外すべて大人用自転車と同じパーツを使っているからです。

これはとても危険で、公園出口のちょとしたスロープ・・・それこそ「坂道」ともいえないような場所で

停まることが出来ずに公道へ流れ出てしまうのです。


ちょっと面白い話を書きます。

実は、今回購入した子供用自転車のブレーキレバーのばね強さよりも、私が所有するロードバイクのそれの

方がブレーキのバネがはるかに軽いのです。

理由はカンタンで、ロードバイクのほうがレバーが大きく、かつキャリパー側ストロークが小さいからです。

これは、コントロール性を向上させた結果であり、ママチャリに使用される汎用のキャリパーでは無理です。



我が娘の手の大きさや握力を勘案し、ブレーキチューニングを行いました。

フロントブレーキはデフォルト位置の調整とストロークを調整しました。リアは抜本的にスプリングを切り、

根本的に引きを軽くしました。

ブレーキワイヤーにシリコンオイルを含ませて引きを軽くしたのは言うまでもありません。

これにより、ようやく我が娘の手の大きさ、握力で思い立ったらすぐに停まれるようになりました。



最近は、1万円を切るような安価なタウンサイクルを見かけるようになりましたが、特にブレーキパーツが

粗悪なものが多いです。このような自転車を撲滅する意味でも「BAA」が立ち上がったはずなのですが、

まだまだ子供用自転車への配慮が足らないと思います。

私は長らく自転車に親しんでおり、チューニングなどは問題なく行えますが、多くの方はここまで気づかない

と思います。

そのような時期を無事に過ごし、子供が大きくなって問題なく大人用自転車でも難なく乗りこなせるように

なればよいのですが、子供をかわいがる余りに小さくてかわいい自転車を買い与え、うまく操作できずに

思わぬ事故に遭わぬことを祈ります。

 何かを「ひとくくり」にして扱うということは、産業においてはひとつの常套手段なのだろうと思っていますが、それは、野菜や果物だったら同じ産地、同じ畑、同じ収穫時期、同じ大きさ、重さという多くのパラメータが「同じ」ものであったり、機械だったら同じ工場、同じ機能、同じ寿命、同じ素材、同じ仕様など「ロット」等として扱う場合に限られています。このなかで、機械でも野菜でも「同じ時期」に「同じ生産ライン(産地)」に取り扱われたものは同じ傾向(不具合とか病気とか)が出やすいことは既知の事実で、このことから「○○年~△△年式の湯沸かし器が危ない」とか、「2009年のボージョレ・ヌーボーは出来が良い」とか言うわけです。

 なぜそんなことが言えるか、といえば、物理的な大きさこそとてつもなく大きな「工場」や「果樹園」であっても、それを生かすも殺すも人間だからで、1000本の葡萄の樹に施す手間も農夫の意思で決まり、100万台の乗用車の燃費を決めるのもエンジニアの設計によるものだからです。

 だからフツー、同じ時代に生まれた世代の人をひとくくりに扱うこと自体、無理があるばかりでなく、身の程知らずも良いところ、ということになるのです。生まれたばかりの赤ん坊のケアの仕方や、離乳食の内容や与え方など一部マニュアル化されているような場合もありますが、これは別に人様の赤ん坊を「乳幼児」と人くくりにしているわけではなく、医学的、栄養学的にも長年のノウハウの積み重ねによって出来上がっている手法に過ぎません。

 それでもマスメディアは人間をひとくくりにすることが大好きです。「原ジャパン」とか「岡田ジャパン」は良いとしても、それは人間個人の尊厳を無視したものであるように思えてしまいます。

 去年の終わりから今年にかけては、ずいぶんと腹立たしい報道が目立ちました。

 例えば「派遣切り」。不況のあおりを受けた大企業が、会社の存続のため、そして正社員の維持のために派遣社員の雇用をコントロールすることは別におかしい話では無いのですが、それがこの時期に大々的に行われたことを受けてマスメディアが採り上げました。この中には、正社員として、あるいは個人事業主として働いていた人たちが不況の影響をもろに被り、職を失い、派遣社員として登録するほか生活を維持する手段の無いところで、再び職を失ってしまった人たちも含まれているのです。単に正社員になりたくなくて派遣社員という選択肢を採っている人とひとくくりにしてはならないと思うのです。

 例えば「天下り」。官僚から大企業のトップクラスのポストへ舞い降りて、何もしないのに高い給料をもらう人たちのことを指しているようですが、官公庁を定年退職後、自発的に企業に再就職して嘱託レベルの給料で大きな力を発するエキスパートもひとくくりにすることは大きな間違いです。

 例えば「ゆとり世代」。wikipediaによれば、1987年以降に誕生し、高校1年生から「ゆとり教育」と言われた制度の中で勉強してきた世代を指しているというのですが、1987年以降に生まれた人は、22歳以下。つまり、今年度の大卒新入社員、あるいはそれよりも若い学生の世代ということになります。浅田真央(1990年生まれ)や石川遼(1991年生まれ)、辻井伸行(1988年生まれ)という世界レベルのアーティストやアスリートを輩出した世代にも係わらず、「ゆとり教育」という名の下でひとくくりにされています。「ゆとり世代は覇気が無い」とか、「ゆとり世代は切れやすい」とか、まるでこの世代の少年少女を自分で”栽培”でもしていたかのように、そしてその産物が「不作」でもあったかのような偉い言いっぷりです。

 でも確かに、そのような傾向が多く見受けられる、というのもまた事実です。マスメディアが人くくりにしてしまうのは、ひとくくりにしたくなるような傾向を持った人たちが大多数を占めているからなのかも知れません。マスメディアはある意味、正直です。

 我が娘は幼稚園に通い始めて早くも9ヶ月がたちましたが、幼稚園に行くと、いろいろな個性の子供が居て、声の大きさも、腕の力も、好きな食べ物も得意なことも様々です。この年頃の幼児は体の大きさもバラバラで、大きな子はとても大きいし、小さい子もまたしかりです。そんな事実を目の当たりにすると、自分の子供を人の子供と比べようという気持ちにはなりません。子供は個性にあふれています。比較する対象ではないのです。それなのに、なぜ成長し、成人するとひとくくりにされてしまうような大人が増えてしまうのでしょうか?またその人たちをひとくくりにするような大人になってしまうのでしょうか?自分や自分の子供が負け組にならないことを強く望んだ結果こうはならないと思います。

 この課題は、年を越しても答えを得られないかも知れません。
 ただひとつ言えるのは、人の気持ちを、そして、人を尊重する気持ちを大事にしたいと言うことです。
 来る年はこの年以上に明るい未来となるよう記念しながら、今年を締めくくろうと思います。

脱“クルマ離れ”へ ホンダが学生のお知恵拝借

学生のお知恵拝借-。大手自動車メーカー、ホンダ(東京都港区)の社員が明治大学商学部(同千代田区)の教壇に立ち、自動車の販売戦略などを考える講義「ものづくり戦略」が16日から開講する。世界的な自動車不況の中、「クルマ離れ」が指摘される若者の本音を探りたいホンダ側と、学生に社会体験をさせたい大学側の狙いが一致した。通年(1年間)の正規講義で自動車メーカーが文系学生とコラボレーションをはかるのは珍しい。

2009.4.10 01:00 産経新聞ニュースより一部抜粋
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090410/biz0904100101001-n1.htm


この記事に、とあるユーザーから知恵袋へ投稿がありました。
「若者の車離れらしいですがこれは当たり前じゃないですか?」「必要が無ければ買わない」と。
その質問者は個人の視点で質問していると察しましたが、一理あるなと思いました。ホンダは新型インサイトの売り上げが予想をはるかに上回る事態になったので、これを機に、若者にも興味を持ってもらおうとしたのでしょうね。でも、本当に「打てば響く」と思ったのでしょうか??


確かに、最近のホンダはおかしいです。

「苦渋の決断」で昨シーズンいっぱいで手放したF1チームは、今シーズン開幕2連勝です。チーム保有中に開発されていたマシンが非常に高いポテンシャルを備えていたということを役員たちは本当に知らなかったのかという疑問の声が挙がっているほどです。

そして、バブル期を含む80年代、90年代の若者が乗る車をリードしていたのも確かにホンダだったかも知れません。F1をはじめとするレーシングカーのテクノロジーをそのまま盛り込んだ「Type-R」のシリーズは非常に人気があり、FF車なのに大きなリアウイングを装着するスタイルは、他メーカーが真似をするほど市場を席巻しました。スタイルだけでなく、本当に高性能だったのですが。

バブル期といわれた時代に本当に売れていた車は、旧セルシオや欧州車などの高級車でした。確かに、その勢いに乗って低価格車もたくさん出ていましたが、現在の方がより低価格でより高性能になっているにもかかわらず、自動車市場は低迷しています。むしろ現在は、300万円前後の中型クラスのほうが売れているのではないでしょうか。


質問者の言うとおり、必要性が無ければ買いません。これは昔もそうでした。どんなに市場が盛り上がろうと、必要が無いと思っていた人は車には手を出しませんでした。現在の「若者のクルマ離れ」は今始まったことではなく、数年前から言われていたものです。そこに「未曾有の世界的不況」が襲います。タダでさえ若者のクルマ離れが進行していく時代に、さらに不況がかぶり、心配しなくても買い替えなどで売れていた顧客層が買わなくなってしまったということです。

不況が落ち着くまでは、最有力顧客層の売り上げ向上は難しいと思います。そうしたら、(不況に関係なく)ここ数年落ち込んでいる若者層の「市場再開拓」をしようと考えたのでしょうね。でも、若者を突き放したのはホンダですよ。シビック、インテグラ、プレリュード、ビート、シティ・・・安くてかっこよくて使い勝手が良くて、それでいてちゃんと速いクルマをホンダはたくさん持っていました。でも、売り上げ至上主義になってしまったのか、ホンダはミニバン会社になってしまいました。

トヨタやニッサンは路線を既に切り替えてますよね。クルマと言う道具に価値観を見出せる顧客層へとよりシフトを強めていると思います。最近では「団塊の世代」と「女性」です。


一方、最近の若者は何に「価値観」を見出しているのでしょうか?携帯電話も機能のほんの一部しか使ってないし(使いこなせていないし)、これだけ国際化が叫ばれているのに英会話を習おうという人も少ないですよね。仕事帰りに仲間と飲みに行く奴もほとんど居ないし、週末はスポーツに打ち込んでいるかと思えば、家でテレビを見ているだけとか・・・。まあ、すべての若者がそうだとは思いませんが。若者でもスズキのスイフトみたいなかっこいいコンパクトカーを手に入れて、週末にはスノボだのフットサルだの積極的に遊びに行っている奴もいますけど。確かにそういう若者は最近あまり見ないです。


そういう若者を「頼みの綱」としているホンダは、もう先が短いのかもしれません。
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 IT関連のWebニュースの中に「ケータイに縛られ・・・」というようなコラムがあり、興味を持って読んでみたのですが、その内容には幻滅しました。「ケータイを持ったおかげで仕事のONもOFFも無くなった」と書いているのです。IT関連のWebに文章を載せるくらいなら、そんなボヤキはやめてほしいと思いました。同じIT関連で働く者として、とても恥ずかしい。

・・・・・と、なんとなーく思ったことを書いてみました。



 私がプライベート用のケータイを持つようになったのは確か2000年の7月くらいだったと思います。実際にはまだ8年と少ししか立っていないのですね。確か、前々職だった会社側へ情報がリークしないようにと、転職活動を始めるくらいの時に初めて契約したという記憶があります。

 このことを20代の若者に話すと、いろいろな意味で少し驚かれます。

 ポケベルブームの衰退とともに、携帯電話が大きく普及したのはそれより少し前のことです。実際には利用料金など、現在よりも高かったので、当然、学生などが手を出せるほど手軽なものではなかったかも知れませんが、まもなく30にもなるという社会人が、ケータイを持っていなかったということに驚くようです。
 しかし実際には、携帯電話がケータイとして普及する以前より、会社から業務用として支給されていました。初めて携帯電話を使って屋外より会社に電話したのは確か、1993年ころだったと思います。今考えたら、現在出回っているMiniノートPCのほうが軽いんじゃないの?というくらい重たい折りたたみ式で、液晶の画面も白黒、8文字がやっと表示できるだけの機能で、電話帳も50件しか登録できませんでした。当然メールも打てません。携帯電話はあくまで、携帯可能な電話機だったのです。

 それが今では、「携帯電話」が「ケータイ」となったように、電話という本来の機能はあまり重要では無くなってきています。ジャーナリストやコラムニストが良く使う言葉・・・「パラダイムシフト」がコミュニケーションの世界で起こり続けているからです。

 いまやケータイは、使う人によってはパソコン並みの機能とパソコン以上の使い道を誇る生活必需品となってしまいました。財布は忘れてもケータイは忘れずに・・・です。




 携帯電話会社や携帯電話製造販売メーカーは、ユーザー数を少しでも多くしようと、携帯電話にいろいろな付加価値をつけるべく、デジカメや音楽再生機能、ワンセグ、電子マネーなどをどんどん追加していきました。しかし、もっとも頻繁に使われている機能は、メールやインターネット接続といった「携帯通信端末」が本来持っているもので、いわば付加機能ではないものです。確かに昔は電話しか出来なかったのですが、電話が出来た時点で、データ転送は可能だということを技術者はみんな知っていたのです。

 そのメールや、インターネット接続による「掲示板への書き込み」が原因で、思いもよらない犯罪が起こったりしているのが現在です。しかし考えてみれば、ケータイでなくてもパソコンによっても同じような事件が以前から起こっているわけで、インターネット接続が出来るケータイが普及したことが、その犯罪増加などを助長しただけともいえます。

 昨今、"学校へのケータイ持ち込み禁止"だとか、"プリペイド携帯を使った犯罪"とか、"blogへの書き込みで裁判"だとか、ケータイに関連した事件や話題が絶えないですね。さも「ケータイ」が悪のように言われていますが、その理由は簡単で、現在の司法、立法、行政の活動の中心となるおじさんたちが若かった昔には無かったものだからです。あるいは、ケータイを駆使したビジネスたや生活をしたことがないからだと思います。
 と同時に、単に便利なものというだけで、リスクを考えずに手を出してしまう消費者の多いこと・・・。

 最近の小学生くらいの子供を持つ親は口をそろえて「何かあったら怖いのでケータイを持たせる」と言うようです。ケータイがまだ「携帯電話」で、電話とメールしか出来なかった時代には無かったことです。
 結局、ケータイの付加機能として付いている「防犯ベル」や「GPS追跡機能」がほしいと言っているだけのことで、一部の自治体では、その機能に特化した携帯通信端末を子供たちに無料で配布し携帯させはじめたところも出始めました。これは良い傾向です。ケータイがもたらすかもしれない「ネット犯罪」の未然防止と、ケータイの付加機能の有効利用がいっぺんに実現できるものです。
 しかし、これを一般販売しても売れないでしょうね。「ケータイと同じように通信料がかかるなら電話も出来たほうが良い」と言うに決まってます。・・・・・・あれ?いつの間にか「電話」が付加機能になってませんか??




 いまや、「ケータイってそもそも電話じゃないの?」と言うこと自体、時代遅れといえます。家に居ずとも、出張先でも子供と話が出来るのがケータイです。まったく音を出さずに、家族や友人、取引先とメールで連絡を取ったり、メモや文章を送ってもらうことが出来るのケータイです。定期券を持たなくとも通勤出来、明日の天気を知り、飛行機の運行状況を知り、買い物が出来、飲み屋に居ながら終電を調べることが出来るのがケータイです。すごい便利なんです。

 しかし、便利なものには人が集まるのと同時に、悪いやつらもはびこります。
 最後に自分を守るのは、自分でしかありません。クルマを運転する人は自分が加害者とならないように、あるいは事故に巻き込まれないように神経を張り詰めて安全運転するのと同じく、携帯電話を使う時には、そのリスクを重々承知の上で使いましょう!




ケータイ落としたやつが言ってもあまり説得力がないですが・・・・・。

ブログを書く前に・・・・

なんで「携帯電話」が「趣味とスポーツ」→「趣味」にカテゴライズされているのか??

と、思ってしまうほど、昨今の携帯電話は生活アイテムのひとつになっていると思います・・・。





さて本題。

それは、あまりにもあっけなく終わってしまったのでした。



12月初旬に某地下鉄駅構内(もしくは電車の中)で落とした携帯電話ですが、

その後、鉄道の拾得物センターへ再三問い合わせても出てこなかったのであきらめ、機種変手続きをしました。

すると、機種変後2週間くらいしてから、某携帯電話会社より一通の封書が届きました。

なんと、携帯電話が警視庁遺失物センターに届いているから取りに行けというものでした。


しかも、届出番号が「地鉄-××××」という、明らかに地下鉄の拾得物センターから移送されたもの。

・・・・・なんで?!

まあ、落とし主が偉そうなことも言えませんが、あれほど(と言ってもわからんか・・)しつこく

問い合わせたのに出てこなかったものが、です。


しかも、遺失物センターの営業時間(営業しているわけではないですが)は平日の8:30~17:15です。

よほどうまくスケジュールが合わないと行けません。


しかし、チャンス到来。

昨日、中抜けに成功です。ほとんど早引けに近いですが。




まず、事前に連絡しろと書いてあったので、紙に書いてある電話番号にかけてみました。すると、



「はいっ!警視庁です!!」


うわっ・・・・。おもわず「ドロボーですっ!!」とか言いそうになるような勢いでした。


「あ、あのー、携帯電話の落し物の件なのですが。」

「はい。それでは、遺失物センターにおつなぎします。・・・・・ではお話ください。」

そして・・・・・

「はいー落としたものはなんですか?」

と、唐突な質問。

「携帯電話です。」

「落としましたか?拾いましたか?」

(あんたが「落としたものはなんですか?」って聞いたんだろ?)「落としたほうです。」

「いつごろ落としましたか?」

(うぇーうざい・・・・)「携帯電話会社から手紙が来まして・・・」

「ああ、では届出番号をどうぞ」

(番号を伝えると)

「はい、確かに預かっておりますのでいらして下さい。」

・・・と、電話は終わり。





都営大江戸線に乗って、一路「飯田橋」へ。

飯田橋駅の出口から遺失物センターは至近距離のようでした。


イメージ 1


出口付近の案内にもちゃんと書いてあります。これなら迷うことはなさそうです。

しかし大江戸線は地中深いことで有名です。長~いエスカレータを乗っていきます。


イメージ 2


まるで、今悪しきものが進む茨の小道のようなオブジェが続きます。

しかし長っげぇーなあ。

しばらくして改札を抜け、しつこく書いてある案内表示どおりに出口を出ました。



しかし、出たところには何の表示もありませんでした。

「あれっ?どっちだ??」


案内なんてあるわけ無いです。出たらその脇の建物がそれでした。


イメージ 3


難なく到着。

そして、中は郵便局か役所の出張所のような雰囲気で、戸籍謄本でももらうかのごとく用紙に記入し提出。

すると、届出番号を見るや否や、

「身分証明書とともにあちらの端っこの窓口に出してください」といわれそのまま進み、

用紙を出すか出さないかぐらいのタイミングで


「これですか?」


2ヶ月前に落とした携帯電話が目の前に。


「はい、これです。」

「ではどうぞ。」


「・・・・・これで終わりですか?」

「はい、終わりです。」


用紙を書いてから1分も経ってないぞ!?


あまりにもあっけなかった。





ところで、遺失物センターの看板にある「LOST & FOUND」って言う文字、要る??
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「戦うスーパー派遣OL」
 ここ数年、日本の会社の雇用形態は大きく変化しました。正社員がどんどん減り、そのときに必要なスキルを持ったエキスパートたちを重用するケースが増えています。
 特に、いまや日本では300万人に迫るといわれている「派遣」と呼ばれる人たち。
 労働基準法の施行から20年、平成11年の自由化、16年の規制緩和を受け、いまや彼女(彼?)達ナシでは企業は成り立って生きません。いま「正社員イズベスト」の時代は終わろうとしています。

(※日本テレビ系列「ハケンの品格」公式HPの「イントロダクション」より抜粋)
http://www.ntv.co.jp/haken/

「ハケンの品格」はご存知、2007年1月10日~3月14日に日本テレビ系列で放映され、平均視聴率20%超え(ビデオリサーチ社)を果たした篠原涼子主演の連ドラです。

実は、こんなさわやかなイントロが書かれてからまだ2年と経っていないのです。

アメリカのサブプライム問題に端を発した現在の世界的な恐慌が主な原因で、欧米に限らず先進国の雇用悪化が露呈してきました。この先進国の雇用悪化は後に新興国にまで影響が広がるのでしょうか?

昨年までは「対岸の火事」のような雰囲気だった世界経済の悪化も、このようなニュースを目の当たりにするたびにだんだんとリアルに伝わるようになりました。



トヨタ自動車、今夏にも期間従業員をゼロに

トヨタ自動車が、非正規雇用である国内12工場の期間従業員を今夏にもゼロにする方向で調整に入ったことが19日、明らかになった。
トヨタは2008年末時点で4500人いた期間従業員を09年3月末までに3000人に減らす計画を打ち出しているが、世界的な新車販売不振に歯止めがかからないため、もう一段の削減で生産現場の余剰人員の解消を目指す。
(中略)
 トヨタの期間従業員は、ピークだった05年上半期に約1万1000人、08年3月末には約9000人いた。期間従業員は業績好調時には人員不足となっていた工場での増産体制を支えていた。
(中略)
 渡辺捷昭社長も「正社員の雇用には手を付けたくない」との考えを表明し、期間従業員の大幅な削減は避けられないとの姿勢を示していた。
 トヨタは人員削減に際して、期間満了の1か月前には契約を更新しないことを期間従業員に伝え、満了慰労金や報奨金などの手当を支給するなど、期間従業員が次の職場を見つける猶予を与えている。
(1月20日3時7分配信 読売新聞ニュースより抜粋)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090120-00000002-yom-bus_all


これまでは起こるはずの無かったことが起こり始めて、そして露呈するようになりました。
しかし、その一方で、こんなニュースもあります。



希望ミスマッチ…派遣切り救済雇用 応募サッパリ

 全国の製造業で相次ぐ非正規社員の「派遣切り」。雇用対策として、さいたま市が発表した臨時職員100人の採用計画の応募が8人にとどまったことが明らかになったが、新規雇用を打ち出したほかの企業や自治体でも元派遣社員の応募が少数にすぎない実態が分かってきた。「派遣切り救済」と「人手不足解消」の一石二鳥を狙った企業や自治体は肩すかしを食った格好となっている。
 高齢者介護施設を全国で展開するさいたま市の介護会社「メデカジャパン」。日産や日本IBMなど派遣社員削減を発表した30社に人員募集の文書を送ったが、「応募は1件しかありません」(担当者)。
 「派遣削減が報道されたあらゆる企業に送っているが、職種や場所がなかなか合わないようで」と担当者は戸惑いを隠さない。
 ラーメンチェーンの「幸楽苑」(福島県郡山市)では派遣切りが相次ぐ現状に先月、例年の3倍の150人の中途採用を発表。ところが面接にきたのは20~30人。派遣切りにあったとみられる人はうち2、3割。担当者は「このご時世なので、社会の役に立ちたいと採用数を増やしたが、拍子抜けしました」。
(中略)
 タクシー会社「エムケイ」(京都市)は先月、運転手1万人の新規募集を発表。1週間で140人が説明会に訪れたが、「元派遣社員の方はチラホラという程度。もっと応募があると思っていたが…」(担当者)。
(中略)
 大分キヤノンなどで合わせて数千人の派遣切りが見込まれる大分県。「JAおおいた」(大分市)では、人手不足にあえぐ農業の現場で働く求人を呼びかけたが、問い合わせがあった約50人のうち元派遣社員は数人だけだった。
(中略)
 こうした原因は、元派遣社員が希望する職場と、人手が足りず求人している職場があわない「ミスマッチ」によるもの。厚労省職業安定局は「どうやってこうした問題を解消するかは検討していきたい」としている。
(1月20日配信 産経新聞ニュースより抜粋)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090120-00000086-san-soci

 個人ブログや一部の記者コラムにも書かれていますが、「この不況下でえり好みする余裕なんか無いはずだ」とか「(日比谷公園の)派遣村に居た人達って一体なんだったの?」と、不況で雇用悪化が進んでいることは明白だが、半ば市民革命じみた運動を繰り広げる「派遣切りを食らった」とされる人達のその中身とその内容が疑問視されています。

 いまや流行語になりそうな勢いの「派遣切り」ですが、その内容を区別しなくてはならないと思います。
本来、派遣社員とは、派遣会社に登録して自分の希望する職種、勤務地、労働時間、期間などにマッチした職種が「募集」されていた場合に、その職につくような雇用形態を指します。つまり、雇用する側とされる側のニーズが一致していることが前提なので、誤解を恐れずに書けば、今のこのご時勢、雇用する側とされる側にニーズが合わなくなったと言わざるを得ません。そして、派遣社員が切られるということは、今始まったことではなく以前よりどこでも行われていたことなのです。一方で派遣社員の側も、契約期間が終われば自由の身になるというメリットを強調して、好きな仕事を渡り歩いていた人も多いと思います。

 今はそれが不況によって、いとも簡単に次なる仕事が見つからなくなってしまったというだけのことなのです。トヨタのニュースにもあるように「正社員の雇用には手を付けたくない」という企業が大多数を占めるでしょう。企業にとっては「社員は会社の資産」であって「派遣は外注と同様」でもあるのです。いわゆるレンタカーと同じなのです。採用後即高い給料を獲得できるのは、派遣社員と実績を積んだキャリア(中途)採用の社員でしかないということです。

 ただ、ここで間違えてはいけないのが、派遣村を訪れた方の中には、当初勤めていた会社が倒産したりして、新しい職を求め、そのつなぎとして「期間従業員」として働いたり「派遣会社登録」をしたりしている人も居るということです。だからすべての人をごちゃ混ぜにしてはいけないのです。従って、「派遣切り救済」と「人手不足解消」の一石二鳥を狙った企業や自治体は肩すかしを食った・・・・という自治体は「派遣切り」のニュースで世論を操作しようとした政府野党の目論みを鵜呑みにしているだけだとも考えられるのです。

 ともあれ、このような自治体や企業の活動によって、本当に仕事にありつきたい人達が職を得られることはいいことです。この際「やりたい仕事が無い」とか言っている人は放っておけば良いとさえ思います。

 でも、本当に優秀な人って、どこに行っても仕事があるものですよね。
 自分もいつの日か窮地に立たされるかも知れないという危機感を持ちつつ、情報収集や自己啓発に余念がありません。



長文乱文失礼しました。
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去る11月9日に自分のケータイを無くしてしまいました。

結果的には、落し物の届出をもうあきらめて、新しいのを買いましたが。



無くした場所は概ね特定できていました。

無くした瞬間も概ね特定できています。

でも、その無くした場所と、その瞬間がまずかった。

場所は東京メトロの某路線。モバイルSuicaを使い、改札口を通り抜けています。

その後、乗換駅に気づかず(乗り過ごし)3駅ほど進んだところで気づきあわてて反対の電車に乗りました。

しかし、時すでに遅く、本来乗り換える駅にたどり着いたときには終電が行ってしまっていました。

そのときに自分がケータイを持っていないことに気づいたのです。

おそらく乗り過ごしたとき、居眠りをしてしまったときに無くしたのでしょう。


そのとき「ケータイを無くしてしまった」と駅員に告げましたが、

「はいはい、もう電車終わってますから」とただただ追い出されてしまいました。

「どこで落としたかわかりますか?」「どちらの方面の電車に乗ってましたか?」とは一切聴かず。

仕方なく地上へ出たら冷たい雨が降っていました。

不幸中の幸い、会社の業務用携帯電話があったので、その電話を使ってすぐに利用停止の手続きをしました。



次の日、地元の駅で携帯電話の紛失を申告すると、すぐに問い合わせをしてもらえましたが

その駅員は「あなたの落としたものと同じものは出ていませんね」とだけ私に告げました。

途方に暮れていても仕方ありませんので、とりあえず会社に行きました。


会社に着いてまずしたことは、モバイルSuicaの利用履歴の検索です。

利用履歴には、無くした当日の最後に、150円の利用履歴・・・おそらくは自販機で購入した飲み物の

代金が刻まれていました。

その後、まる1日経ってもその利用履歴が増える事はありませんでした。

また、東京メトロの総合忘れ物センターに問い合わせたら、深夜の落し物は1日遅れで集荷されると聞きました。

そうして、少しだけ望みを残して次の日の11日に再度忘れ物センターに問い合わせても届出が無かったので

とりあえず追跡をあきらめ、モバイルSuicaにもそれ以上の利用履歴が無いことを確認した上で停止しました。

時間帯からして、他の接続路線へ自分のケータイがそのまま行ってしまったことはないでしょう。

おそらく、どこかの誰かしらが拾ったか何かして、既に回線停止になっているケータイを見て、

ゴミ箱か何かに捨ててしまったのでしょう。

本当にあきらめる直前に一度回線停止解除を行ってみたところ、既に繋がらなくなっていましたから。



新しいケータイは、本日ショップにて受け取りました。

USIMカードの再発行こそ行いましたが、そのおかげで機種変更扱いとなり、番号もメアドも以前のままです。

モバイルSuicaの再登録も済ませ、既にチャージしている額がそのまま戻ってきました。

唯一失ってしまったのは、数十件の電話帳。

しかし、そのデータも、愛車デュアリスに搭載されている「カーウイングス」ナビにバックアップしてあり

ほとんどすべての電話番号を取り戻すことが出来ました。

ただし、ソフトバンク以外のユーザでアドレスを教わっている人には、もう一度教えてもらうしかありません。

そして、ケータイを無くしてしまい、もしかしたら友人等のメアドが不特定多数の人間に廻ってしまったかも

しれないという事実を告げ、頭を下げる必要もあります。



この一連の出来事を見ていた嫁が一言言いました。

「ケータイを無くすとろくなことが無いねぇ・・・。」



いや、ケータイに依存しているとろくなことが無いというのが正しいでしょう。

利益をもたらすものは往々にして、ともに同等のリスクを伴うものです。

利便性だけを追求することは出来ないのです。



それにしても、落としたものが財布でなくて良かったです・・・・・高々ケータイで。されど・・・・。


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 以前に読んだことのある「IT media News」の記事の中に「キャリアに「目標」は必須ではない」というコラムがありました。

 その記事の趣旨は、ビジネスマンにも「価値観型」と「ビジョン型」の2傾向があるということでした。もう少し細かく書くと、とりわけ欧米人や近来の成功者には「ビジョン型」の人間が多いがために「世間では、何かを成し遂げるにはビジョンや目標が大切だ、とよくいわれる。「5年後、10年後、20年後、どんなビジョンを持っているの?」「目標は何?」と聞かれることも多い」というくだりがあるそども、それに翻弄されてはならないというようなことが書いてあります。

 この文章から察するに、日本人の多くは、"匠"という文化が根付いているのと同様にビジネスをリードする立場の人間と言うよりも、ビジネスのコアスキルをもって、それを誇りとしている人間の方が多いのだけれども、欧米思考が強くなった昨今のビジネスシーンにおいては劣等感を感じている人が多いけれどそれを悔やむことはない、と言っているように感じます。
 いわば、欧米思考が強い人の場合は、やはり「ビジョン型」であり、目標に向かって邁進する人が多いと思いますが、自分を含めて(と言っておきますが)価値観を重視する人間にとっては、如何にして目標を達成するかはあまり重要ではないと書かれているように見えます。
 ここでひとつ間違えてはいけないこと・・・それは、目標設定ということそのものはやはり重要である、ということ。目標が何もなく、ただダラダラと時間をつぶすのは"仕事"ではない。それは誰もが認識していることです。

 このコラムを読んで、私の気持ちは少し変わりました。それまでは「ビジョン」こそが大事なファクターであるとある意味信じていましたが、誰かに雇われている(=サラリーマンである)以上、そんなビジョンと言うものは水物でしかないということにやっと気づいたからです。
 自分で会社を興したらそれはずいぶんと条件が違います。会社全体の目標がなかったらまず会社は発展しないでしょう。でも、サラリーマンである以上、自己のビジョンなりを打ち立てたところで、そのビジョンと会社としてのビジョンがシンクロしていなければ何も起こらないし、ましてや、自分の置かれているポジションが事業部長でもなかったら、そんなビジョンは、単なる将来の夢にもならないのではないでしょうか。

 まず、自分がサラリーマンである以上は、無理くりビジョンなんてものを打ち立ててもしょうがないんじゃないか?と思うわけです。それ以前に、今、自分が所属しているチームの諸問題を如何にして解決しOPEXを削減していくかのほうがよっぽど重要です。

 でも、会社が変わる場合は話は別です。嫁と娘を養っていくための"金蔓"が会社ですから、ある意味勝負する必要があります。
 ひとつの会社にとどまって仕事を続けていく場合には「価値観型」を貫いてしかるべきではありますが、新しい職場へ向かおうとするときには、価値観型の自分を押しつぶしてでも「ビジョン型」の自分の一面を相手に示し、自分が納得するポジションに納めてもらう必要があります。まあ、そんなにうまく行くことは稀かもしれませんが。

 そんななか、昔に確か行ったことがあるよなー、という某外資系人材紹介会社(ぶっちゃけ、ヘッドハンター)からのアプローチが最近ありました。
 以前は、突然の(おいおいどうやって電話番号調べたの?というくらいの)ケータイへの電話に始まり、そのころは興味津々だったこともあって、なけなしの英会話スキルを駆使して当時のヘッドハンターと1時間ほど会話し、その場は終わったのですが、そこから数年も経った今になって、改めてそこのリーダーからのアプローチが再びありました。
 「単に忘れてるだけじゃねーの?」そう思ったのですが、よくよく話を聞くとそうではないらしく、具体的に複数の某IT企業のアカウントマネージャーのポストにあてがえる人材を探している模様。一度は登録していたリストにあった自分のプロファイルに目が留まったらしいのです。
 まあ、決して悪い話じゃありません。でも、以前と違うのは、既に結婚し、2回の転職も済ませ、愛する我が娘もいるということです。そんな簡単に冒険も出来るわけではありません。それでもこういう話に興味を持ってしまうのは、性格かも知れません。仮にとある会社へのアプローチの糸口になるかも知れませんし、あるいは何は無くとも現在の市場の情報収集になれば今の仕事にも生かすことが出来ますし。デメリットは何もありません。もしかしたら、ここは「価値観型」の自分を貫いたほうが良い結末になるような気がしてなりません。一応、自分の現状を知ってもらうために、最新版のレジュメを添えてメールを送りました。

最後に、相手より送られてきたメールを原文のまま(もちろん実名は伏せますが)載せます。
こういうのって、やはりエキサイティングですね。


Hi XXXXX-san,

Thank you for sending through your resume. This is very helpful for us.

I am currently searching for pre-sales engineers for four clients. All of these clients are foreign vendors of Telecommunications networking equipment and services. I need strong engineers with IP networking, optical networking or carrier Ethernet experience. One client provides cellular network testing equipment and services and is also looking for good pre-sales engineers.

I am also searching for a customer support/project manager for a leading vendor of WiMax solutions.

If you think any of these sound interesting and if you feel you have the relevant experience, please let me know and we can arrange a time to meet.

Best regards,

Daniel
 

記事のサイト:
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